Someone You Loved - Lewis Capaldi
ひさしぶりに一人きりで何もせずに過ごす時間がポッカリとできたので,Youtubeで音楽を聞いた.そして今日とりあげるのは,Lewis Capaldi の Someone you loved.かなりのヒット曲らしいのだが,私は今まで聞いたことがなかった.
きっかけはLucy Thomasの動画.以前このブログでも取り上げたが,Lucy Thomasの透き通るような歌声と選曲,それに吸い込まれるような彼女の目が好きで,時々彼女の動画を見る(聞く)のだ.今回彼女が新たにアップしたカバー曲が Someone You Loved なのだが,特にその歌詞の内容に惹かれた.
画面の下に出る歌詞をじっくりと追い,知らない単語は調べて読んでいるうちに,オリジナルの歌手の歌も聞きたくなってYoutubeで探したのだ.それが Lewis Capaldi の Someone You Loved(たぶん).Lewis のカバーと比較するのは申し訳ないが,本家のこちらも本当に素晴らしい.
初めて聞いたこの歌に強く惹かれたのは何十年も前の古い記憶.この歌の主人公の状況とは同じでなかったが,歌詞を聞いているとそのときの胸の苦しさをくっきりと思い出す.苦しくて,苦しくて,このままでは生きていけないと思いつめ,丸2日か3日街を放浪したあげく,1週間寝込んだのだ.会社を休んで.また,ほんの少しだけ苦しくなった.
デマ,検閲,隠蔽,コミュニケーション,そして判断
動画サイトYoutubeがすべての反ワクチンのコンテンツを禁止するという.新型コロナウィルス・ワクチンが危険とか,経口薬のイベルメクチンがコロナに効くという動画が削除されたとの話,あるいはそのアカウントが凍結されたという情報はネット上で散見される.しかし今回の禁止は新たにすべての反ワクチンに適用されるとのことだ.アカウント停止・削除等についてはYoutubeだけでなくfacebookやTwitterでもよく行われていると聞く.
https://jp.mobile.reuters.com/article/amp/idJPKBN2GP1MY?__twitter_impression=true
https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1343363.html
https://www.bbc.com/japanese/58169160
一般論として,意図的に流す「デマ(嘘)」や,明らかに悪意を持って流す「デマ(嘘)」を禁止するという「ルールを作る」ことは当然といってよいだろう.ただし,YoutubeやfacebookやTwitterのような一企業が -- 公的機関であっても同じだが -- ある情報・コンテンツを「デマ」と一方的に判断し,ルールを盾に有無を言わさず削除することについては危惧を抱かざるをえない.ネットに流れる情報は「動物園からライオンが脱走した」のようにすぐに真偽が明白になるものばかりではなく,事実か誤りかが不確実な場合のほうが多いからである.真偽がはっきりしないこと,あるいは真偽に二分することが不適切なことについては,自らの考えを表明し,意見を交換する自由を保証することが民主主義の基本原則のはずだ.政府が,ましてや一企業が一方的に何が正しいと決め,それに反する情報やコンテンツの発信を妨げるということがあってはならない.それは「検閲」であって自由と民主主義が保証されるべき社会では許されざることなのだから.
今回初めて世に出た新技術であるmRNAワクチン(新型コロナワクチン)についていえば,私は迷った末に【ほぼ安全であろう】と最終的に判断して接種した.家族にも勧めた.しかし【100%安全である】,つまり【死亡したり重い後遺症が残ったり,抗体依存性感染増強(ADE)が起きる可能性が皆無】という確信は今でも持っていない.なぜなら,1) 割合として多くはないが,接種後まもなく死亡した例が1000件以上報告され,それらのほとんどで接種との因果関係は公的に不明とされている,2) 抗体依存性感染増強に関しては,テレビ・新聞・雑誌・ネットにおいて明確な根拠に基づいて可能性を否定する説明がない,もちろん公にも皆無である,3) スモン病,サリドマイド,C型肝炎,エイズなど,厚生労働省が認めたものだけでも過去に数々の薬害事件が起こったが,当初これらの悲劇は予期できずに安全だと考えていたはず,4) そもそも日本政府,官僚,御用学者,大手マスコミは都合の悪い情報をいつも隠す,からである.
https://www.mhlw.go.jp/bunya/iyakuhin/yakugai/data/jugyou-02.pdf
上述のような理由で,私は新型コロナワクチンを接種したにもかかわらず,間違いなく安全と信じているわけではない.接種後の今でもADE等の不安を多少感じている.だから判断材料になる情報があれば,その内容がポジティブであれネガティブであれ,情報を手に入れて自分で考えたい.個々の情報の信頼性と正確さは情報源と情報内容を自分なりに吟味することで判断し,それに基づいて他人ではなく自分の納得ずくで安全性と危険性を判断したいのだ.残念ながらお上が信用できない国に生まれた者として.
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今日の朝日新聞のコラム,「月間安心新聞+」で神里達博が「ワクチン副反応に思う リスクの議論 やはり納得感」を書いている.科学史の専門家だが,リスクコミュニケーションにおいて肝心なのは「リスクに関する情報や意見の『相互交換』のプロセス」と指摘する.日本の行政官庁の常である「一方的な伝達」でも,御用学者による「一方的な説得」でもダメなのだ.そして情報や意見の相互交換には「信頼関係」も大事.「信頼できない人から聞いた話は,誰も納得しない」のは当然だろう.
https://www.asahi.com/articles/DA3S15061533.html?iref=pc_rensai_long_375_article
私は自分のリュックに281_AntiNukeさんの「DON'T TRUST GOVERMENT」バッジをつけている.少なくとも心のなかでは筋金入りの反政府人間なのだ(と自分では思っている).ただ,好き好んで反政府人間になったわけではない.情報を隠し平気で嘘を言う政治家と官僚(例えば,赤木俊夫さんの自殺事件を思い出してほしい),専門業界の利益と出世のために希望的観測のみを言う御用学者(例えば,原子力事故は起きない,100ミリシーベルト以下の被爆は問題ないと言い続けた学者を思いだしてほしい),権力におもねり報道すべきことを報道しないマスコミ(例えば,安倍晋三のお友達である山口敬之による伊藤詩織さん強姦事件を思い出してほしい.先進諸国ではこの事件を大きく報道したが日本のマスコミは当初完全にスルーした).彼らは自分たちに都合の良い情報を押し付け,都合の悪い情報を隠す.彼らが我々一般国民と誠実なコミュニケーションをしようとしない限り,少なくとも私は彼らを信用することができない.彼らが与える情報のみを信じていたら,私自身が判断を誤ってしまうからだ.
そんな彼ら -- 政治家,官僚,御用学者,大手マスコミ -- が自分たちに都合の悪い情報を「デマ」とよび「デマを信じるのはやめよう」という.政府・自治体のホームページやマスコミの記事を見てデマかどうか調べようという.「ふざけるな!」と言いたい.政府や自治体のホームページで赤木俊夫さんの自殺の真相がわかるか.山口敬之の逮捕状が突然に取り消された経緯がわかるか.主要マスコミは福島原発が大津波に襲われる危険性を報じたか(共産党の赤旗は何年も前にそれを指摘していた.共産党は国会でもそれを質問していた).私は自分で何が正しいかを判断する.私が嘘だと思ったら,政府の情報でも嘘だという.海外では広まっているのに日本のマスコミで報道しなければ,情報を隠しているという.YoutubeやfacebookやTwitterが,特定の情報を削除したりアカウントを停止すれば,検閲だと批判する.
何が正しいかは,自分で考えよう.その前に,ちゃんと勉強をして基礎知識をつけよう.そして世の中をじっと見つめよう.でないと,権力者たちに騙される.
戦う映画は見たくない
戦う映画が苦手だ.はっきり言えば,苦手というより嫌いなのだ.だから,やたらと戦いが多い最近の映画(私が言う「最近の」は,家人に言わせれば「ずいぶん昔の」ということになるらしい)はあまり好きではない.そしてその意識がどんどん強くなってきた結果,「私は映画が好き」とは言いづらくなってしまったと感じている.
「鬼滅の刃」なんて題名を見ただけで見る気を失う.エヴァンゲリオン? 内容は全く知らないが,ちらっと何かの絵を見ただけで私の見る映画じゃないという感じ.「ハリーポッター」はなかなかよい物語で,戦いの場面がそれほどある映画ではないらしいのだが,家族がアマゾン・プライム映画で見ている様子を横目でちらりと見たときにいつも戦っているような気がするので,私は見ない.そんな調子で映画の選り好みをするものだから,映画好きであったはずが,気づいてみるとずいぶん見ていないな,ということになってしまう.
そんな私でも,戦いの場面があるのに好きな映画はある.「俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde, 1967)」,「明日に向かって撃て(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid, 1969)」,そして「レオン(原題:Léon, 1994)」である.どれも随分と昔の超有名な映画だ.
前の2つは私が大好きだったアメリカン・ニューシネマの代表作である.どちらも物語の中に,当時としては暴力的に見える銃撃戦の場面があったと思うが,昨今の多くの映画のように戦闘場面そのものをエンターテインメントとして見せようとしている訳ではない.「レオン」はフランスと米国の合作でアクション映画に分類されるから戦闘そのものを見せる場面もある.しかし他のアクション映画とは違って,興奮やスリルを楽しませるための場面ではないと感じる.疎外の中で生きてきたレオンの心に芽生える孤独で幼いマチルダに対する切ないほどの心情.戦いの場面はそれを際立たせるためのしかけとでもいったらよいか,とても上質な演出であると思う.私の心を震わせた映画はたくさんあるが,戦いの場面を含む映画は,おそらくこの3つだけだと思う(といいながら他にもあるかもしれない).
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私のツイートを見たことのある人なら分かると思うが,戦う映画は嫌いだと言いながら,私はときどき非常に攻撃的なツイートをする.攻撃する対象は,安倍晋三前首相と菅義偉現首相が大半,あとは政権中枢にいる政治家たちだ.最近は,自民党総裁選に出た河野太郎と高市早苗をも批判している.もちろん彼らが人間として,政治家として,あるいは権力者として誤っている,または不誠実だと思い,そのような人間に日本のトップに立ってほしくないと思っているからである.が,それだけではない.組織のトップに立つ者,国の首相あるいは首相になろうとする者は,批判されて当たり前であり,批判されることが1つの大切な仕事でもあると思うからだ.誰もが認める高い地位にあり,その意思決定が我々の生活や人生を直接に左右するのであれば,単なる批判だけでなく,バカ,アホ,卑怯者程度の『侮辱』も場合によっては許容されるべきと思うのだ.彼らが我々の人生を握っているのだから.もちろん,俳優,歌手,テレビタレント,スポーツ選手等の有名人,およびその家族や婚約者など,我々の人生や生活に直接の影響を及ぼさない有名人に対して侮辱することが,決して許されないのは当然である.
今,法制化が議論されている侮辱罪に関していえば,政治家および政治に助言を与えている政府委員会の学者たちに対する『侮辱』については,刑事罰の適用除外にすべきと思う.そうでなければ,ただでさえ自民党政府に恫喝されてビビり,報道すべきことまで自制して隠すマスコミが完全に沈黙してしまう可能性が大きい(例えば,伊藤詩織さん事件など).そうすると民主政治への期待が潰された香港のように,ネットで政府や首相を批判・侮辱しただけで市民が逮捕されるという言論弾圧がこの国にも起こりかねない.
家人に言わせると,私は夢の中でよく戦っているという.深夜,寝ているときに突然,「このやろう」とか「ふざけるな」と怒り声をあげるのだそうだ.年に一回程度は,叫びながら自分の声で目が覚めることもある.そんなときは見ていた夢の内容をはっきり覚えているのだが,何らかのかたちで自分が追い詰められているのだ.自分が追い詰められて行き場を失い,ささやかな自らの権利を主張してもせせ笑われ,絶体絶命の場で窮鼠猫を噛むのように,逆襲に出ている.だから悪夢なのだ.家族の言うことを信じるなら,私はかなり頻繁に悪夢を見ていることになる.
それはたぶん,少年時代の経験の後遺症なのだ.少年時代にいじめられた心の傷.すでに50年以上が過ぎていて今さら心の傷でもあるまい,と自分には言い聞かせたいのだが,こればかりはどうにもならない.クラス中の生徒全員が敵に見え,先生までもが私が悪いと責めたてた一年間の記憶は,何度も思い出され,記憶が強化され,今に至る.さすがに今は,ほとんど何の支障もなく日常生活を送っているのだが,それでも時々折りに触れて思い出し,死んでしまいたくなることもあるのだ.
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映画の話に戻ろう.映画好きだったはずの私だが,映画紹介を見ても,見たいと思う映画はだいぶ減った.戦いが主要テーマである映画が増えたことも1つの理由だが,映画の作り方が昔とだいぶ違ってしまったようなのだ.日常生活と自然な行為を通して観客に状況を理解させ,言葉に頼らず想いを伝えるのが映画におけるドラマであったと思うのだが,いつの間にかセリフ過剰,説明過剰な映画が増えた気がする.外国映画では日本語への吹き替えが一般化し,スクリーンの中で外国人がなぜか日本語を喋っている.特に昨今の日本映画は,テレビドラマに乗っ取られたかのように,登場人物たちが一つ一つの出来事や一人ひとりの想いを過剰なセリフでストレートに説明する.私は,淡々と出来事を連ねて状況を描写する映画,例えば無口な登場人物が一人落胆して街をさまよい,気になる人に会ってほっと頬を緩める,その間,一切のセリフがないような映画が好きなのだ.孤独や悲しさや理不尽や幸せを,人々の生活や心の動きを,淡々と描写していくような映画が好きなのだ.
だから最近は,シネマコンプレックスのような大映画館に行くことはほとんどない.ときどき映画を見にいくときは,単館で公開される外国の映画を選んで見ている.
異物混入モデルナワクチンのその後
先月末,異物が混入したモデルナ製新型コロナワクチンを接種した30代の男性が2人亡くなったと報道された.このふたりが受けたワクチンの製造ロット番号は「304734」,どちらも接種の3日後に亡くなったという.
2人の30代男性の死亡記事
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210828-OYT1T50284/
9月に入ってからさらに40代の男性の死亡が報道された.この男性が受けたワクチンのロット番号も「3004734」.接種の翌日に亡くなっている.
40代男性の死亡記事
https://news.yahoo.co.jp/articles/599da10796c149c8ba3c7cf67d265db8a22c4d4e
そして昨日,上述の3人の死亡原因の調査結果が発表された.「現時点では情報不足などで評価できない」.つまりわからないということだ.
接種後に死亡の3人 “因果関係 評価できず”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013253721000.html
「現時点では」というのだから引き続き調査は行われるのだろうが,どうせ政府と御用学者のやること.いつものように,最後は「異物混入ワクチンが原因とは断定できない」といってウヤムヤにし,世間が忘れるのを待つのだろう.
それは異物が混入していないワクチンについても同様だ.「第67回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会,令和3年度第16回薬事・食品衛生審議会薬事分科会医薬品等安全対策部会安全対策調査会」(長すぎ!)では,2月17日から8月8日までの991の死亡例について,「因果関係が否定できないもの」が0件,「因果関係が認められないもの」が5件,「情報不足等により因果関係が評価できないもの」が986件とする.つまり,ワクチンが原因のものは0件,否定できるものが5件,あとの大半はわからない,としているのだ.
新型コロナワクチン接種後の死亡として報告された事例の概要
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000823368.pdf
科学的にわからない,断定できないということは嘘ではないだろう.しかし,その「科学的に断定できない」という事実を,「ワクチンが原因とはいえない」というよう政治的・行政的結論にしてはいけない.その2つのフレーズは言葉として意味が違うだけでなく,政府の方針に素直に従った運の悪い被害者を見捨てることになるからだ.数々の過去の薬害や公害,原爆被爆の歴史を少し見れば分かるように,氷のように冷たい日本政府はいつもそうやって被害者を切り捨ててきたのだ.
さて以下では,30代男性が突然死する確率という観点から,ネット上で得られるデータを用いて,亡くなった2人の30代の男性について評価してみよう(40代男性も同じロット番号のワクチンだったからまとめて計算したいところだが,面倒なため30代のみとする).
2人の男性はどちらも同じロット番号「304734」のワクチンをうち,3日後になくなった.武田製薬のサイトを見ると,このロット番号の出荷本数は52,000本,摂取回数は52万回分であるという.
モデルナ:同一ロット番号の出荷本数と摂取回数
https://www.takeda.com/ja-jp/announcements/2021/covid-19vaccine-suspension-of-use/
52万回のうち何割が30代男性に打たれたのか分からない.だがモデルナが職場接種に使われたということであるから,すべてが回収されることなく25歳から64歳に均等に使われたと仮定しよう.すると30代には13万回接種したことになる.男が7割と仮定すれば9.1万回.面倒なので多めに10万回接種としよう(摂取回数の多めの仮定はワクチンによる死亡確率を小さくする).すると,死亡率は 2 / 10万.同じワクチンが国内のすべての30代男性(約924万人)に打たれ,同じ死亡率であったとすると,想定される死亡者数は,924万 x 2 / 10万 = 185.つまり,185人が同様に死亡すると想定される.
年齢別人口
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai08/sankou3.html
この数字を,30代男性の突然死の数字と比べてみよう.突然死に明確な定義はなく,その発生率の推定は簡単でないようだが,以下の調査によれば,20歳から39歳の男性の突然死は,年間で10万人あたり8人から16人だという.突然死は年齢が高いほど増えるから,多めに見積もるという意味でこれを30代の突然死率と見ることにする.30代男性は約924万人だから,日本全体では年間で 739人 から1478人が突然死する(意外と多いな..).
疫学からみた我が国の突然死の実態
ただし,この数字( 739人 から1478人)をワクチン接種後の185人と比べるわけにはいかない.死亡した30代の2人は接種後3日,40代の男性は翌日だったのだ.接種直後だったからワクチン接種後の死亡として報道されたわけで,もしこれが1ヶ月後,半年後であれば話題にもならないだろう.だから突然死者数も年間ではなく,3日から1週間程度に絞らなければならない.ただ3日間に限定すると絞り込み過ぎのように思えるので5日間とし,30代の男性が5日間に突然死する人数を計算すると,5/365を掛ければよいから,10人から20人(10日とすれば20人から40人)となる.
つまり,結論はこうだ.5日の間に普通の30代の日本人男性が突然死する人数は10人から20人.それに対して,異物混入ワクチンを30代日本人男性全員に打った場合の死者はおおよそ185人.もちろん,たまたま2人が亡くなったがこれが一人だったら185人の数字が半分に減る.52万回の接種のうち30代男性が10万人より多ければ数字は下がり,少なければ数字は上がる.だが,そのような不確定要素を考慮にいれても,大雑把な試算から言えることは,異物が原因だったとか,ワクチンそのものが原因だとか,断定はできなくとも,やはり怪しいということである.
詳細で厳密なデータが取られ,すべてのデータが公表されていれば,より厳密な統計的な分析ができるはずだ.しかしそれは今の日本政府には期待できないだろう.GDPデータを操作し,雇用統計データを改ざんする日本なのだ.データサイエンスなんて,この国の政治や行政には,豚に真珠.
http://ictj-report.joho.or.jp/1905/sp08.html
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsudasakae/20190507-00125075
https://www.huffingtonpost.jp/entry/news-ishido-gdp_jp_5cc7f8e9e4b05379114a0b7a
百日紅の花
以下の記事を書いた後,何人かの知り合いに百日紅の話をしてみたところ,「昔からどこにでもあるよ!」,「〇〇にも百日紅の並木があるよ!」という反応ばかり.やってしまいました.花についてまともな知識もないのに,勝手にいろいろ考えて書いたものが以下の文章です.妄想としてお読みください.
★ ★ ★
今年の4月,新潟・長岡から横浜に引っ越してきた.仕事のため25年前に横浜から長岡に移り,そして定年になって戻ってきたのである.戻ったと言っても行く前の地とは異なる.引越し前は横浜の中程からやや北にいて,今は横須賀市のすぐ北側にいる.
私は草木については全く疎いのだが,散歩をしていると,ときどき木に咲く花が気になることがある. 横浜ではあまり見る機会がなかったのに長岡でよく見るようになったのは花水木である.それまで,花水木といえば淡いピンクの花びらで中心部のみが白いとばかり思っていたのだが,長岡で真っ白なものがあると初めて知った.
それから長岡で白い花水木をよく見かけるようになったのだから,ひょっとすると,さきほど「横浜では見る機会がなかった」というのは,単に私が無知であっただけだからかもしれない.私を含めて,世の中にはそうした知識不足による勘違いが数多くあるだろう.
ちなみに,花水木には白の混じらないピンク色の花もあると,この機会に知った.
夏になって,この町に百日紅の木が多いことに気づいた.駅から自宅マンションに来るまでの間だけでも何本かある.マンションの一本向こうにあるバス通り -- 金沢八景の海が近いからか鰻屋が何件もあるため,我が家ではうなぎ通りと読んでいる -- には,百日紅並木がある.その並木を見て,初めて知ったのが百日紅にも白い花があること.そして,紅にも様々な色合いがあることだ.光加減があるかもしれないが,真紅,紫かかった紅色,ツツジのようなピンク,薄紫,薄桃色.真夏,この街には様々な紅色の百日紅がある.
そういえば,子供の頃に育った横浜・神奈川区にも百日紅の木がところどころにあった気もするのだが,これほどたくさんはなかったと思う.社会人になって東京に9年ほど住んだが,東京の百日紅は記憶にない.朝,地下鉄に乗り,下車後は地下道を通ってビルに入る毎日だったし,帰りは早くても夜9時という生活だったから花どころか青い空すらほとんど見ることはなかった.長岡に移ってからは自然に親しむ機会がずっと多くなったが,百日紅をみたことはないような気がする.
この街に百日紅が多いのは,おそらく,一山越えた向こうにある鎌倉の影響だろう.この街には,鎌倉時代からある寺もいくつかあるが,その中でも称名寺は北条氏ゆかりの寺院で,隣には北条実時が設けた日本最古の武家文庫 - 金沢文庫 - があるのだ.そして鎌倉には一年中花の咲いている寺がたくさんある.有名所だと,円覚寺,明月院,長谷寺などだが,「鎌倉 花の見頃ガイド」によれば,百日紅を見られる代表的な寺だけでも,宝戒寺、海蔵寺、長谷寺、浄妙寺、安国論寺、英勝寺があるという.
今年は6月に紫陽花を見に鎌倉まで行ったが,間に合えば,夏中に百日紅の花を見に行ってみよう.遅くとも来年の夏には.
鎌倉 花の見頃ガイド
https://kamakura-guide.jp/flower-guide
無意味さに耐える能力
内田樹が「無意味耐性の高い人たち」という文章を書いている.
http://blog.tatsuru.com/2021/08/16_0819.html
今年の広島平和式典で問題になった菅義偉の「原稿読み飛ばし」についてである.たかだか6分程度の原稿を読むのに7ヶ所読み間違えたことにも驚くが,約120字分読み飛ばして,全く意味の通らぬ文章を平然と読み進めたことには少し唖然とする.「少し」というのは,今までの菅義偉の言動の異常さというか,非常識に比較すると,それほど驚くことではないような気さえしてしまうからだ.
内田樹は「意味のない言葉を口にしても気にならない」人のことを「無意味耐性の高い人」と呼び,日本社会になぜこのような人が多いのか考察している.今日はこのことについて少しだけ私の考えを書こうと思うが,その前に菅義偉の広島平和式典での挨拶原稿についてふれておこう.
まず次の記事によると,菅首相の挨拶文の全体構成は昨年の安倍前首相のものとほぼ同じだったそうだ.
https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/suga-hiroshima
それに加え,長崎平和式典での挨拶文には「広島と同じ文言が随所にみられた」という.
https://www.asahi.com/articles/ASP896CRRP89TIPE002.html
前任の安倍首相はコピペの常習犯で,昨年の広島と長崎の挨拶は約9割が同一だったというから,それに比べればマシだったといえるかもしれない.しかし挨拶の中の言葉とは裏腹に,十分に準備・推敲された原稿とはとてもいえないことを考えると,前任の安倍晋三と同様に,一国の首相として,戦後日本の平和の象徴あるいは軍国日本の蹉跌ともいえる「ヒロシマ・ナガサキ」を重要視していないことがよくわかる.
https://www.asahi.com/articles/ASN8C5SJZN8CULFA013.html
http://tamutamu2015.web.fc2.com/kopipeabe.htm
以上の事実を認識した上で今年の広島記念式典での菅首相の読み誤り・読み飛ばしを聞いてみると,内田樹の指摘どおり,事前に目を通すなどの準備を全くしていなかっただろうことがよくわかる.スピーチライターから昨年の安倍晋三前首相の原稿とほぼ同じ内容であることぐらいは聞いたであろうが,事前に目を通して手を入れようなどという真剣さは全くなく,その場で与えられた原稿を読めばいいんだろうという程度のやる気のなさだったとしか思えない.
例えば,自分自身が大事な式典でうかつにも120字分の文章を読み飛ばし,全く意味の通らぬ文章を読み上げてしまったとしよう.そのことに気づいた時に慌てるかどうかは人によるだろう.だが実際にそれをやってしまったとき,通常の人であれば一旦読むのを止め,何を間違えたかと一瞬でも考えるのではないか.瞬間の判断でとりあえず少し前から読み直すかもしれない.しかし菅義偉にはそうした素振りはまったくなかった.つまり,読み飛ばしたことに気づいていなかったのだ.そのことから推測できることは,彼は自分の言葉を心で追わず,ただ機械的に読んでいた.学校の教室で先生に当てられ,しぶしぶ教科書を読んでいる小学生のようにただ字面を追っていたのだろう.
もしかしたら空っぽの頭で機械のように読んでいたのではなく,他のことを考えながら読んでいたのかもしれない.どちらが事実かは分からぬしどうでもよいのだが,間違いないのは,原爆慰霊の気持ちを持って首相の話を真剣に聞いていた広島の人々や犠牲者の家族を傷つけたことだ.さらに踏み込めば,菅義偉は彼らを傷つけたことについてすら気づいていないようだ.
ところで「無意味耐性の高い人」について,内田樹は日本にはこのような人が「大勢いる.あるいはもう日本人の過半がそうなのかも知れない」と書く.しかも「これは現代日本ではある種の『社会的能力』として高く評価されている」とすら書く.
ぎょっとする話だ.だがよく考えてみれば,国会では国家公務員採用総合職試験(昔は違う名前だったと思う)に合格し,出世して高級官僚になった者たちが,野党の質問に対して答えにならない答弁,意味の通らぬ答弁,あるいは事実とは思えぬ答弁を意図的に,そして平然としているのだ.ときにはまともな日本人とは思えないほどに言葉を捻じ曲げて法律や規則を「解釈」してみせる.虚偽である明白な証拠を示されなければ何を言っても「嘘」じゃないと言いたげだ.そのようにして国民を欺く明らかな悪意を,東大などの一流大学で鍛えた地頭を絞って実行するのだから始末に悪い.おそらく国会に出てくる高級官僚たちは,野党の政治家や野党を支持する国民たちを全く馬鹿にして,まともに答える必要がない,コミュニケーションを取る必要もない,と思っているのだろう.
視点を変え,組織における「無意味な仕事」についても考えてみよう.つい半年前まで,私が勤務していた国立大学にもそれは溢れていた.内田樹が指摘するように,無意味な仕事は上意下達が徹底している組織に多いのだが,日本の公務員組織は上意下達がすべてといってよい.現在,国立大学の職員・教員は公務員ではないが,2004年3月までは公務員だったし,今も文部科学省の【高級官僚さま】に予算や規則でがんじがらめに縛られている.法人化した後も国立大学は事務職員を中心とした上意下達の組織なのであり,教員たちは複雑極まる規則の塊にがんじがらめに縛りあげられた組織上のお飾りなのだ.
昨今は,国立大学教員にとって無意味な仕事 -- 大学教育の「ダ」の字も,学術研究の「ガ」も知らない市場原理主義的有識者たち = 民間企業の経営者たちがその場の思いつきで提案する大学改革 -- がつぎつぎと襲ってきて,虚しい仕事に追われる日々になった.国立大学は独立した法人ではないかと思うかもしれないが,一般の民間企業に例えれば,文部科学省が本店,国立大学を支店と考えれば実態がわかりやすい.金儲けしか考えたことのない民間有識者たちが求める教育・研究 -- 金儲けビジネスモデルを考案し実行する能力を育てる教育と儲かる製品やサービスを考案する研究 -- を本店が新しい大学の姿として受け入れ,それを全国の支店に有無を言わさず押し付ける.だから,支店でも本店の意向に従うイエスマンのみが幹部となり,その中の誰かが支店長=学長になる.それが,日本の国立大学の現状だ.
無意味な上意下達の命令に疑問を呈すること.明らかに誤った指示にNOを表現すること.それが勇気ある個人の行動としてではなく,我々日本人の普通の行動として一般化することは不可能なのだろうか.そのことが,コロナ禍で苦しむ今,正しい判断が国民の命に直結する今でこそ,必要なのではないだろうか.安倍政権と菅政権に脅されて,あるいは遠慮して,政権に不都合な内容の報道をやめたり薄めたりする日本の大手マスコミのことを考えると,道のりは険しそうだ.日本のマスコミに,香港のりんご日報の責任感と勇気を望むのは無理なことなのだろうか.
以下は,2002年以降の世界報道自由度ランキングにおける日本の順位とそのときの首相である.一見して分かるのは,安倍晋三が首相のときは報道自由度が低く,民主党政権時は自由度が高かったことだ.菅義偉政権になっても安倍晋三のときと同じく低い.
世界報道自由度ランキングの推移
2002--26位 小泉純一郎(自民)
2003--44位 小泉純一郎(自民)
2004--42位 小泉純一郎(自民)
2005--37位 小泉純一郎(自民)
2006--51位 小泉純一郎(自民) --> 安倍晋三(自民)
2007--37位 安倍晋三(自民)--> 福田康夫(自民)
2008--29位 福田康夫(自民)--> 麻生太郎(自民)
2009--17位 麻生太郎(自民)-->鳩山由紀夫(民主)
2010--11位 鳩山由紀夫(民主)--> 菅直人(民主)
2011-(22位) 菅直人(民主) --> 野田佳彦(民主) (2011と2012をあわせて2012に発表)
2012--22位 野田佳彦(民主)--> 安倍晋三(自民)
2013--53位 安倍晋三(自民)
2014--59位 安倍晋三(自民)
2015--61位 安倍晋三(自民)
2016--72位 安倍晋三(自民)
2017--72位 安倍晋三(自民)
2018--67位 安倍晋三(自民)
2019--67位 安倍晋三(自民)
2021--67位 菅義偉(自民)
過去の背負い方
今日のタイトルは8月21日の朝日新聞・耕論のテーマの完全なパクリで「過去の背負い方」.記事は過去の行為の責任を問われて東京五輪演出チームを辞任または解任された関係者の例をあげ,過去の責任の負い方について3人の論者から聞いた話をまとめている.だが今日これから書こうと思う内容は,論者たちへのコメントでも記事に対する感想でもなく,自分の過去についてどう向き合うかについて,私自身が若い頃からずっと考えてきたことである.
https://www.asahi.com/articles/DA3S15016677.html
2020東京五輪はコロナ禍に翻弄された不運な五輪だった.しかしそれだけでなく,その運営や人選については「恥辱の五輪」とさえ言いたくなるほどに混迷を極めた五輪だった.私が把握しているだけでも,通常では起こらないような以下の数々の事件・不祥事があった.このリストを眺めていると,まるで先進国から転落していく日本を見ているような気さえする.
2013 首相の嘘八百演説(福島第一原発,東京の夏の気候など)で東京五輪を誘致
2015 建設費高騰でザハ・ハディドの新国立競技場デザイン案撤回
2015 エンブレムデザイン盗作で佐野研二郎案撤回
2020 電通社内のパワハラ問題で開閉会式演出チームメンバー 菅野薫辞任
2020 開・閉会式総合統括 野村萬斎退任・チーム解散(理由不明)
2020 組織内人事トラブルで開会式執行責任者 MIKIKO辞任
2021 女性容姿侮辱で開・閉会式総合統括 佐々木宏辞任
2021 過去の性犯罪的壮絶虐待とその自慢話で開会式音楽担当 小山田圭吾辞任
2021 過去のユダヤ人大量虐殺ネタお笑いで開閉会式ショーディレクター 小林賢太郎解任
上述の新聞記事が念頭においている事件は最後の2つ,小山田圭吾と小林賢太郎のことだろう.
「人は自分の過去(の発言や行為)に責任を持ち,誠実に生きなければならない.」
私がこのようなことを意識し始めたのは高校生の頃だ.そう考え始めたきっかけは2つある.
1つは,当時の年配者から「あの頃は若かったんだ」「歳を取れば分かる」「今にわかる時が来る」などという発言を頻繁に聞いていたからだ.若い者は未熟で,現実社会を知らず,世間に通用しない空論を振り回すが,歳を取れば現実を知り,世の中を知り,正論ばかり言ってられなくなる.君もきっとそうなるよ.そんなふうに若い者を押さえつけようとする年配者に対して激しい憤りを感じていたのだ.私はあなた達とは違う,歳をとったからと安直には転向しない,簡単に考えを変えるのは真剣に人生を生きていないからだ,と心のなかで叫んでいた.
もう1つは,70年安保闘争で権力と戦っていたはずの憧れの大学生たちが皆,大学卒業前になると拳を下げて,髪を切り,大人しくなって企業社会に入っていくのを見たからだ.大多数の学生たちは何ごともなかったかのように企業人になり,闘争で破れた後に追い詰められ過激化する昔の同士たちに冷たい視線を向けた.私には,大多数の裏切り者が世渡りの下手な少数を見捨て,蔑んでいるように見えた.論壇等においてかつて革新だった知識人が年老いて保守に転向することの多いのに気づいたこともある.
https://www.huffingtonpost.jp/2014/02/12/uk-lottery-study_n_4771788.html
「歳をとってから若い頃の自分が誤っていたと安直に反省したり,知らなかったと言い訳したり,他人事のように懐かしんだりする人間には決してならない」
それがティーンエージャーだった私が繰り返し考えていたことである.そして,30代半ばまでは折に触れてそのことを思い出した.思い出し方は,しだいに「自分の過去には責任を持つ」というややあいまいな表現に変わっていったがその想いは忘れなかった.しばらく前に「安易に反省するような人間になってはいけない」という趣旨のツイートをし,「反省という言葉の使い方が間違っている」と批判されたことがあった.私にとって「反省」とは,反省しなければならない誤りを過去にしたから必要になることなのであり,その誤りは,過去の自分が自分に対して誠実でなかった/真剣でなかったことを示していると思うのだ.
小山田圭吾と小林賢太郎がしたこと,つまり「性犯罪的壮絶虐待とその自慢話」,そして「ユダヤ人大量虐殺ネタお笑い」が私自身のしたことであったら,たとえそれが少年のときのことであっても,20年以上前のことであっても,とても耐えられないだろう.「責任を果たす」と考えても何をすれば果たしたことになるか途方にくれるだろう.どんなことをしても「責任を取った」とは思えないだろう.まして,時間の経過で「責任が軽減される」わけはないし,「社会に許される」とも思えない.世の中から消えてしまいたいと思うに違いない.
しかし,「ユダヤ人大量虐殺ネタお笑い」については,本人の真摯で不断の「反省」と「謝罪」が行われていれば,それが社会の中で広く認知されれば,日本国内に限っては社会的に許される時がくるかもしれない.一方で「性犯罪的壮絶虐待とその自慢話」については果てしなく深刻だ.同じように壮絶虐待を経験し,心に傷を負い,何年も,何十年もその陰惨な記憶に苦しめられて生きている人は世の中には数多くいて,彼らはけっしてそれを忘れないからだ.本当に真摯に反省するのであれば,一生「責任を負って」生きるしかなく,大昔だったら出家する以外に生きる道は考えられないだろう.とても華やかな職場で生きていけるようなことではない.時代錯誤といわれるかもしれないが,映画「夜叉」の高倉健のように生きていくしかないように思える.耐えられないほどの恥辱を味わった被害者のことを考えれば..
反省...思い起こせば,私にも顔から火が出るほど恥ずかしいことをした記憶はいくつかある.若かった頃,何をしても自分の想いが伝わらなかったあの頃,躊躇しながらもしつこい行動をとったことがある.好きな人にどうしても思いが通じず,寂しさを紛らわすように心ならず他の女性と付き合ったこともある.匿名ブログだからこそ書けることで,今となっては当時の相手に心から謝罪することしかできない.今でも後になって反省すべきようなことを決してすべきではないと思うが,もししてしまったら,謝罪と反省をするしかないだろう.そして追うべき責任,果たすべき責任があればそれを負い,果たすべきだろう.「責任を果たす」など,そんなに簡単なことではないと知りながら.
小山田圭吾と小林賢太郎がしたこと.それは確かに彼らが責任を負うべきものだ.重い,重いその責任は,彼らが,彼らの人生を賭けて果たしていくべきものだろう.