霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

新聞を読まなければ情報を得られない.新聞を読めば誤った情報を与えられる.

 

僕らの年代の多くはそうだったと思うのだが,子供の頃から新聞を読めと言われて育った.小学生の頃は4コマ漫画,スポーツ,将棋欄を見るだけだったが,しだいに三面記事を読むようになり,成長するにつれ家庭欄や外報欄,高校に入る頃には一面から一通り,毎日記事を眺めるようになっていた.中学・高校時代は学校からの帰宅後に読んでいたのだが,大学生になると朝食後に1時間,新聞を読んでから大学にでかける毎日になった.当時の私にとっては,授業よりFM放送を聞きながら新聞を読むほうが大切な時間だったのだ.

 家で読む新聞は朝日だった.自動車総連傘下の労働組合に所属する工場労働者だった父は,選挙になると組合の指示のもと民社党(民主社会党)の支援をしていたのだが,少なくとも1953年,日産争議で総評系の組合が会社に敗北するまでは社会党支持であったと思う(日産争議の話題を振っても父は涙ぐんだまま話をすることはなかった).そのうえ母が社会党支持の家庭に育ったガチガチの社会党支持者だったこともあって,我が家での新聞は朝日一択だったのだろう.

 そのような家庭だったから私が読む新聞も子供時代から今に至るまで朝日.最初は単に読み慣れた新聞というだけだったが,そのうち右翼的な産経新聞が嫌いになり,社主の振る舞いや自民党機関紙ぶりが鼻につく読売新聞を避け,日経の一面を見て世の中で大切なものは経済だけじゃないなどと思ううち,全国紙の選択肢はどんどん狭まり,朝日新聞の購読が続いてきた.読売や産経や文藝春秋週刊新潮の朝日叩きを見ると,そのレベルの低さと目くそ鼻くそを笑う姿に呆れていた.

 だがこの10年ほど,私は朝日新聞毎日新聞,さらにはテレビも含めて,主要メディアに対する信頼をすっかり失ってしまった.マーク・トウェインの有名な言葉,

 

  新聞を読まなければ情報を得られない.新聞を読めば誤った情報を与えられる.

 

が,しみじみ実感として感じられるようになったのだ.

osprey

 きっかけは何だったろう.記憶はおぼろだが,おそらく2012年12月,民主党政権野田佳彦内閣)から自民党政権安倍晋三内閣)に変わった後のメディアの報道ぶりだったように思う.民主党政権末期は,民主党政治の何もかもがメディアに批判されていたと思うのだが,自民党政権に代わった途端,変わっていない政策に対してもメディアの批判がピタリと止んだのだ.全くとは言わぬまでも,嵐のような批判が突然小雨程度になった.消費増税も,米軍基地の辺野古移転も,オスプレイの沖縄基地配備も.これらの政策で民主党政権はかまびすしいほどの批判をメディアから浴びていたが,自民党政権になるとそれらに対する批判はほとんど報道されなくなった.

 変わらぬ政策であるのにあまりにも違うメディアの態度.その激しい落差に自分の感覚が信じられず,家族に確認をしてみたのだが,家族も全く同じように感じていた.長年読んでいた朝日新聞ですらそうなのだから,メディアに対する私の信頼が崩れていくようだった.

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 自民党政権が始まった後に安倍晋三が言い出した「悪夢のような民主党政権」の報道ぶりもひどかった.このフレーズは,(おそらく電通が作り)安倍晋三が国民に刷り込もうとしたイメージ戦略なのだろうが,メディアは本当に悪夢だったのかの検証もせず,せいぜい思いつきの例を1つか2つ挙げるだけで無批判にこのフレーズを垂れ流した.フクシマ原発事故についても,コトの本質や判断の妥当性を吟味することよりも,当時の菅直人首相の言動をただ悪意で喧伝する安倍晋三の言葉を垂れ流し続けた.

 

 民主党政権はそこまでひどかったのか? 安倍政権と比べてみると…

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88224

 

 2012年から2020年の安倍政権下で報道機関としてのメディアは劣化し続けた.もちろん,朝日新聞毎日新聞が安倍政権の暴走を全く批判しなかったわけではない.安全保障法制や共謀罪についてまともな議論もせずに数の力で押しきったこと,反対者の言葉に耳を貸すどころか敵を作って国民の分断を煽ったこと,モリカケサクラ(森友・加計・桜を見る会)に見る税金使用の公私混同,検察総長や内閣法制局長官さらにはNHK会長や経営委員への非常識な人事介入については,民主主義を揺るがすものとして大手メディアも批判をした.

 

 解釈変更は「できません」 2度拒み、長官は代えられた

 https://www.asahi.com/articles/ASP165W7XND1UTFK014.html

 ありえない手口で首相が"お友達"を検察トップに!

 https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2020/05/12/111283/

 籾井勝人「新会長」で進む『安倍さまのNHK

 https://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/nhk_3_b_4483447.html

 NHK経営委員に仰天「安倍人事」 

 https://www.j-cast.com/2013/10/25187271.html?p=all

 

kunitani

だが,メディア幹部が安倍晋三と仲良くお食事をし,官邸の圧力でキャスターや解説者を何人も降板させ,逮捕状を撤回してまで隠蔽した首相のお友達の強姦犯罪を世界の一流紙がこぞって報道するなかで日本メディアは黙り込んだ,等々を考えると,首相や官邸が本気で圧力をかければ,日本のメディアは抵抗せずに黙るだろうことがよくわかる.厚労省国交省の統計不正についてメディアは大きく報じたが,GDPの数値が大きくなるよう算出方法を変えてGDPが増えた増えたとアベノミクスを宣伝する安倍晋三を正面から批判することはしない.

 

 安倍政権の圧力で降板、NHK国谷裕子

 https://lite-ra.com/2016/03/post-2078.html

 「統計偽装国家」日本が中国を全然笑えない現実

 https://toyokeizai.net/articles/-/264805?page=2

 

 これらは権力に都合の悪い事実をメディアが『報道しないだけ』である.『報道しない』『言わない』も文脈によっては嘘と全く同等な効果をもたらす悪意となることをメディアも自覚しているだろうが,昨今のメディアの不誠実はそれだけではない.より重要な不誠実は,メディアが積極的に権力の流すフェイク(事実に反すること,または真偽不明なことを事実のように思わせる情報)の拡散に協力している点である.科学的/社会的に真偽不明な事柄について,あるときは正しいと証明されてないからデマといい,あるときは誤りが証明されてないから否定するのはデマと強弁する.恣意的に真偽証明の責任を使い分け,常に証明責任の不要な側に自らを置き,権力に都合の良い情報を流して世論を導こうとする.それは『デマに騙されるな』という言葉によって官製デマを信じさせようとする行為である.

 例をあげよう.以下は,主要メディアが必ずしも明示的に主張しているわけではないかもしれないが,その言動・振る舞いにより,読者・視聴者にそう思わせている事柄である.

 

1) プーチンの主張 − ウクライナ東部でロシア系住民が虐殺されてきた,アゾフ連隊はネオナチである − は嘘である

2) 新型コロナの予防・治療にイベルメクチンは効果がない

3) 新型コロナワクチンに,一般人が心配するほどのリスクはない

4) 新型コロナウィルスは,自然由来である/人工的に作られたものでない

5) 二酸化炭素の増加を放置すると人類は危機に陥る

6) コレステロールや血圧は,検診で異常値が出たら医者に行って治療すべき

7) 長生きしたければ,ガン検診をして早期発見・早期治療をすべき

 

程度の差はあれ,ある程度の知識を持って誠実に考えれば,これらはどれも100%正しいと断定できるものではないはずだが,これらを否定すると世間では変人とされるか,ポリティカル・コレクトネスに欠ける人間と思われかねない.そのような社会状況にしてしまった責任は,明らかにメディア(と御用学者)にあるといっていい.

 いずれにしても,今の社会状況でこれらに疑問を投げかけるには(メディアによって不当に証明責任を押し付けられてしまったため)一つひとつきちんと理由を述べる必要があるが,どれも簡単に説明できることではない.ここでは1)のみについて述べることにするが,その前に2)から7)までについて簡単にコメントしておく.

2)についてはFLCCC (Front Line Covid-19 Critical Care Alliance)のサイトが詳しい.世界中のイベルメクチンの学術研究,臨床研究,治療結果について信頼できる最新情報を提供している.

 https://covid19criticalcare.com/ja/

3)については,分子生物学・免疫学が専門の荒川央氏の学術的知見に基づく数々の考察が誠実だと思う.

 https://note.com/info_shinkoro/n/n0ded21b4f15c

4) 新型コロナが流行し始めた2020年,人工ウィルス説に対してメディアは「フェイクキャンペーン」を張った.有名科学者たちの意見を受けたキャンペーンではあったが,それは決して科学的根拠に基づく見解ではなく,西欧科学者の常識/研究者倫理に基づく個人的意見でしかなかった.だが偶然とは考えられないほどの,十分すぎる以上の状況証拠が集まっているのは事実で,米政府が公式に人工ウィルス説の検証を始めるとメディアは黙りこくった.米政府は結局「証拠不十分でわからない」と結論をだしたが,メディアは自らが始めたフェイクキャンペーンを忘れたふりをしている.

5) は,数多くの科学者・研究者・技術者が疑わしいとし様々な議論を展開しているが,主要メディアはIPCC側の見解以外は報道しない.数多くのサイトがあるが,キャノングローバル戦略研究所の杉山大志氏の説明がわかりやすい.

 https://cigs.canon/energy/

二酸化炭素原因説についての疑問は以下が参考になるかもしれない.

 http://kjs.nagaokaut.ac.jp/yamada/info/globalwarming.pdf

6)と7)は非常に多くの記事や本,ホームページがあるが,医薬業界や検診業界の浮沈がかかる問題であるため,そうした職業人の大半はほぼ間違いなく6), 7)を支持する.だが,これらを否定する学術論文も有名医学雑誌に数多く出ている.

 http://kjs.nagaokaut.ac.jp/yamada/info/science.pdf

 

さて,1)について手短にまとめよう.

kotegawa

 2014年2月にウクライナでマイダン革命が起き,親西欧の政権が誕生した.それがきっかけでウクライナ東部のロシア系住民が自決権を要求し,それ以来8年以上に渡ってウクライナ東部で戦闘が続いてきた.3月に起きたロシアによるクリミア半島併合もマイダン革命がきっかけである.

 2014年当時に,小手川大助(キャノングローバル戦略研究所)が起きた事実,その背景について詳細に分析している.マイダン革命のきっかけとなったデモは欧米政府(と諜報機関)が深く関与したものであったが,デモが暴力化し多数の死者(警察官とデモ隊合わせて70 - 100人)が出たのはウクライナの極右暴力集団/ネオナチの行為によると結論している.その後5月に,オデッサの悲劇(ロシア系住民48人前後が殺された事件)が起きたが,これもネオナチによるものとされる.さらに革命後に成立した政権は"ネオナチ政権"との形容が適切に思えるほどの陣容であった.小手川氏は,財務省内閣官房審議官,国際通貨基金日本政府代表理事等を歴任した人物で,現在は大分県立芸術文化短期大学理事長兼学長である.

 

小手川大助(キャノングローバル戦略研究所)

 『ウクライナ問題について』 2014年 3月-5月

その1)https://cigs.canon/article/20140320_2453.html

その2)https://cigs.canon/article/20140410_2494.html

その3)https://cigs.canon/article/20140513_2563.html

その4)https://cigs.canon/article/20140515_2572.html

 

以下の映画『ウクライナ・オン・ファイアー 』はマイダン革命に関するドキュメンタリー映画で,上記の『ウクライナ問題について』とほぼ同様の結論を含む.両者の主要部分ががほとんど一致していることで,それぞれの内容の信憑性は非常に高いと感じる。蛇足だが,この映画を見ていると大統領を追われたヤヌコーヴィチが可愛そうになってくる.

 

イゴール・ロパトノク監督 2016年  『ウクライナ・オン・ファイアー 』

 

次は,有名映画監督オリバー・ストーンによるプーチンのインタビュー映画である.プーチンがひたすらに語る映画だが,質問に対して戸惑うこともなく率直に答えている.つまり,その場でつじつまを合わせる嘘を言っているようには見えない.上記2つとも矛盾はなく,プーチンが語ることはすべて嘘,と決めつける日本のメディアがあやしく見えてくる.

 

オリバー・ストーン監督  『オリバー・ストーン オン プーチン』2017年

エピソード1)

   

エピソード2)

   

エピソード3)

   

エピソード4)

   

 

次の映画は,フランスのジャーナリストによるウクライナ東部の町『ドンバス』のドキュメンタリー.ロシア系住民が追い詰められた様子や虐殺された様子が語られるが,ウクライナ東部でのウクライナ側の主力はアゾフ連隊(大隊)であるとの小手川の指摘を考えれば,アゾフ大隊(ネオナチ)にロシア系住民が虐殺されたのは事実と想定できる.

 

アンヌ=ロール・ボネル監督  『ドンバス 2016』

https://www.youtube.com/watch?v=ln8goeR5Rs4

 

 

 ★    ★    ★

 

さて,おまけだが,以下は,公安調査庁のHPである.

https://www.moj.go.jp/psia/ITH/topics/column_03.html

 

その中ほどに『国際的につながる極右過激主義者』,『海外の紛争,イベント等への参加』との表題を持つ部分がある.その部分は,2022年4月4日には以下のようであった.

2022/04/04時点での記述

だが,2022年4月18日には次のように変更されていた.つまり,公安調査庁は『ウクライナ愛国者を自称するネオナチ組織が「アゾフ大隊」なる部隊を結成した』を含む段落を丸ごと削除してしまったのだ.

2022/04/18時点での記述

4月4日から18日までの2週間の間に何があったかを考えてみると,テレビのニュース・ワイドショーにウクライナ軍の主力あるいは精鋭部隊として「アゾフ連隊」という名前が出始め,同時にネット上にアゾフ連隊はネオナチとの投稿が出始めた頃だ.事の詳細は分からないが,公安調査庁が自ら気づいたか,外部に指摘されたかによって「アゾフ大隊」のクレンジング作業が行われたのだろう.

 

他の国は知らないが,日本社会ではこのように,権力とそれに従うマスコミ,従順な国民によって誰も彼もが,権力の望む見解に従うよう強制されていく.しかも戦後80年近く,権力者たちは好戦的なアングロサクソン国家の下僕だ.将来日本が他国に侵略されたら,日本と軍事同盟を結んでいる米国は言うだろう.『君たちに正義がある.君たちを支持する.我々は戦わないが,同盟国として最大限の支援をする.ほしい武器はいくらでも援助する.戦え! 戦え! 戦え! 決して降伏するな.最後の1兵まで民主主義のため,自由のために戦うんだ.』

 

そして,日本だけが荒廃する.

 

 

 

 

殺さないこと,戦わないこと

Soldier1

1960年代から70年代始め,私が子供か少年だった頃,多くの日本人は憲法9条を戦後日本の素晴らしい宝物のように思い,日本もスイスのような永世中立国になりたいと考えていたように思う.まだ個人の海外旅行など簡単にはできない時代だったが,日本人が行ってみたい外国はいつもダントツでスイスだった.日本に軍隊はいらない,日米安保もいらない,外国が日本に攻め入ってきたときには手を挙げて降参するのが一番だと考える人たちが大勢いた.

 

Soldier2

第二次世界大戦の悲惨な戦いが人々の心に強く残っていた時代だ.街ではまだ白衣や軍服を着た傷痍軍人アコーディオンを弾きながら物乞いをしていた.彼らは南太平洋で,インパールで,フィリピンで,満州で,凄惨な戦いをして傷ついたのだ.ソ連や中国に比べれば数は少ないが,230万とも言われる戦死者の中で半数以上あるいは2/3は戦闘で死亡したのではなく,病死あるいは餓死だったという.第二次大戦の後半,日本軍は敗走に次ぐ敗走を重ねていたが,生きて帰った者たちの証言によれば,時には傷ついた戦友を見捨てざるをえないことがあり,生き延びるために人肉を口にした者も稀でなかったというほど,凄惨極まる戦争だった.なんとか日本までたどり着いた帰還兵の多くは戦場でのことをほとんど話さなかったと聞く.日常に戻りつつあった戦後日本で,それほど陰惨な経験を家族に話すことなどとうていできなかったろう.

https://www.hns.gr.jp/sacred_place/warcasualty.html

 

Bombing

国内では,広島・長崎の原爆および日本中の都市に対して行われた米軍の戦略爆撃により80万の市民が犠牲になった.数字としては中国,ソ連,ドイツに比べればはるかに少ない.しかしそれでも,戦争はもうこりごりだと誰もが思った.戦争に負けるまで,日本政府と日本軍は鬼畜米英,負けたら男は皆殺しにされ,女は強姦され,日本の国は地上から消える,だから一億総玉砕の覚悟で戦えと言い続けてきた.しかし負けて米国に占領されてみると米兵は意外に優しかった.町中でチョコレートやガムを子供たちに配るだけでなく,飢えた日本人に食料のみならず,医薬品,医療,学用品など,大量の救援物資(ララ物資)を贈って助けてくれた.日本人の心であった天皇の戦争責任を問うことはなかったし,農地開放で地主の土地を貧乏小作人に分け与えてくれた.それまで日本人が知らなかった自由や人権まで授けてくれたのだ.こんなに優しいアメリカさんだと分かっていたらさっさと負ければよかった,鬼畜米英などと言わずにもっと早く降参していれば310万(戦死者230万+国内死者80万)もの日本人の命を失わずに済んだのに...と多くの人が思った.

 

Palestine

一口に戦争といっても様々な形がある.例えば,旧ユーゴスラビアイスラエルパレスチナの戦いのように,異なる宗教や異なる民族間の長年に渡る憎しみが主因の戦争であったのなら,戦後日本のような幸せな敗戦はありえないだろう.国民同士の憎しみ合い,特に先祖や過去の復讐や恨みに基づく戦いの場合は,皆殺しまたは民族浄化が戦争の目的になりかねない.しかし帝国主義的戦争や覇権を目的とした戦争の場合,つまり為政者の権力欲や領土・利益が目的の戦争 -- 国民と国民の間の憎しみ合いではない戦争 -- の場合は,戦争中の犠牲者(死者,負傷者,強姦被害者,その他)の数より,戦争後の勝者暴力による犠牲者の数ははるかに少なく済むだろう.そうであれば,犠牲者の数だけを考えると,負ける可能性の高い側のベストな選択肢は【戦わない】である.戦わないことを前提に(ブラフとして多少の抵抗を示すとしても)交渉する.戦えば負けることは明らかだから交渉力は弱く,国の主権や領土を失うかもしれない.しかし,何万,何十万,何百万の国民を犠牲にすることとの二者択一なら,【戦わない】がはるかにマシな選択であると私は思う.

 

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War

ウクライナとロシアの戦い.どちらに正義があるかについては議論する必要もないだろう.私が言いたいのは,ウクライナの大統領,ウォロディミル・ゼレンスキーの意思決定についてだ.『自国の独立と主権を守るために徹底的に戦う』その決断は誇り高く,たぶん美しく,自国民だけでなく,世界中の人々から称賛されるだろう.国連総会でも各国代表が立ち上がって拍手をするだろう.だが,どんなに世界中から称賛されようが,軍事的・経済的支援を受けようが,それは数多くの自国民を犠牲者にする決定であることは間違いない.戦わなければ,NATOへの加盟は諦めると約束すれば,あるいは彼がロシアの要求を受け入れて大統領を辞任すれば,犠牲になった国民の大半は犠牲にならずに済んでいただろう.

 

ウクライナのことはウクライナの人々が決める.それでいい.彼らは膨大な犠牲者を出しても,敗北する可能性のほうがはるかに高くても,誇りのために戦うことを選んだ.

 

GDP

だが,同様のことが日本に起きたとき -- 可能性として考えられるのは中国による日本への侵略 -- 日本は本格的な戦争をしないほうがよいと私は思う.戦えば同盟国である米国が助けに来てくれるにしても(日米安保では,日本が自ら戦うのであれば米国はそれを助ける義務を負う,だったと思う),相当数の犠牲者を出さざるをえないだろう.中国と日本の全面戦争 - 助ける米国にとっては極東での限定的な局地戦 - になれば,中国が核を使わなくても,戦闘員,非戦闘員の区別なく日本の犠牲者が膨大に出るのは必須だろう.2020年代半ば,遅くとも2030年には中国のGDPは米国に追いつくという.軍事的に追いつくのはもう少し先だろうが,中国の兵力数は米国の倍以上である上に,米国より遥かに日本に近い.自らの意思で日本に侵攻する中国と,他国を義務で守る米国という士気の違いもある.さらに重要なのは,日米連合に勝つという計算ができたときに中国は日本に侵攻するだろうから,可能性としては日本の完敗と考えてよいだろう.

 

だとすれば,国民の犠牲者を最小限に抑えるためにも戦わないほうがよい.また,いったん全面戦争を始めてしまえば,間違いなく2つの国民はお互いに憎しみ合うようになる.国民間の憎しみがしばしば占領後の虐殺につながることを考えれば,同じように占領されるにしても,戦わずに負けた方が占領後の犠牲者も少なくなるだろう.

 

   ★  ★  ★

 

GDP

戦わない.決して戦争しない.憲法9条は,公的には,あるいは学術的には,日本が二度と他国を侵略しないようにするために作られたそうだが,昭和の時代,多くの庶民はそのように理解しなかった.戦場で無残なほどに惨めな死に方をしていった親や兄弟や戦友.降り注ぐ焼夷弾(ナパーム弾は焼夷弾の一種)の中で燃え上がり焼けていった家族や友人.310万人のそうした犠牲者を出した経験として,あの頃の多くの日本人は侵略されても戦わない,二度と悲惨な犠牲者をださない,その決意として憲法9条があると理解したのだ.それは,当然だが,他国を侵略しないことにもつながる.

 

私は,子供時代のように,あの頃に機動隊と対峙していた大学生たちのように,素朴に,今でも非武装・中立を望んでいる.もちろん,アンポ・ハンタイだ.

 

プーチンは悪魔か? 悪魔に妥協は禁物か?

Ukraine

2月24日,ついにロシア軍がウクライナに侵攻した.それまでロシアの侵攻に対して半信半疑だった人々も含め,メディア,評論家,国際政治学者たちは一斉にプーチン批判を強めた.『ウクライナNATO加盟はロシアにとってレッドライン』『プーチンは何度もNATOの拡大に警告を出していた』と欧米のやりすぎを指摘するリアリストもいるにはいたが,『ロシアの利益から考えても合理的判断とは言えない.プーチンの心の中は見えない』と歴史を見ずに語る合理万能主義者や,プーチンの言動と怒りの分析もせずに『かつてのソ連/大ロシアの復活を夢見る時代錯誤の独裁者』としたり顔で断定する者ばかりになった.プーチンを悪魔の独裁者としてステレオタイプ化し,ただ許せないと批判しても解決には結びつかないが,それしかしないメディアがとても多い.

 

プーチンは悪魔か?

 

Putin

民主主義国であるウクライナで暮らしていた一般市民にとって,突然戦争をしかけてきたプーチンはもちろん悪魔だろう.ロシアに家族や親戚がいるウクライナ国民が数多くいる一方で,ウクライナ国民の多数派はロシアと敵対する西側の一員となることを望んだ.民主的選挙で選ばれた大統領がその政策を実現しようとしていた.それは,民主主義を当たり前のように享受する西側の人間にしてみれば全く問題ないどころか,まさに"正しい"行為だ.しかし,悪魔のプーチンは戦争によって民主的に選ばれた政権を倒そうとしている.

 

だが,正義が常に勝つほど世界は単純でない.清く正しく生きれば常に物事が先に進むわけではなく,努力すれば必ず成功するわけでもない.正しさの基準が異なる人々と同じ世界で,時には敵対しながら,我々は生きざるをえない.正しさの基準が異なるどころか,そもそも正しさに価値を見いださない人も,多くはないがいる.これこそが,きれい事では済まない真の多様性なのだ。"正しく","誠実に","努力"しても物事がうまく進まなかったとき,成功を妨げた人をただ非難するだけでは - そうしたくなる気持ちは分かるが - 人生を切り開くことはできない.人生に不条理は満ち満ちている.

 

そんな不条理な世界を生き抜く術のひとつが妥協だ.例えば,人通りのない夜道でチンピラにカツアゲ(古い!)されたとしよう.「金を出せ!」 もちろん金など出す義務はない.だが,深夜,金を出せと凄む危険なチンピラに「金など出す義務はない」と正面から抵抗することは,武術に長けた人間でない限り,賢い選択とはいえない.

 

さらにもう一つ,物語を付け加えよう.カツアゲをするそのチンピラはあなたの顔見知りだったとする.それもずいぶん昔,あなたが彼にとって大切な約束を破り,それが原因で彼がビジネスで大損をしていたのだったらどうだろう.たとえあなたが彼に借金している訳ではないとしても,人として彼に大きな『借り』があったことになる.その時「金など出す義務はない」と突っぱねることは,法的には正しくとも,人の道として正しいことだろうか.

 

Shock

適切な例だったとは自分でも思えぬが,全く的外れではないだろう.ソビエト連邦ソ連)の解体時,大国ソ連は乱暴な米国資本にボロボロにされた(ナオミ・クライン著:ショック・ドクトリン - 惨事便乗型資本主義の正体を暴く,第四部参照).その上,西側軍事同盟であるNATOは当時の約束(密約?)を破って東ヨーロッパに拡大し,かつてのソ連の同盟国を片端から取り込んだ(2000年代半ば以降,プーチンはこの約束違反に何度も言及し怒りを表明している).そしてウクライナだ.ウクライナはかつての同盟国ではない.まさにソ連そのものであった国なのだ.プーチンにしてみれば,NATOは約束を破っただけでなく,かつてソ連そのものであったウクライナにまで進出しロシアの平和と安全を脅かしている,と言いたいところだろう.ロシアとウクライナは歴史的・文化的に一体だったとのプーチンの主張が妥当かどうかはそれほど重要でない。プーチンがそう固く信じていることに西側の指導者たちは注意を払わねばならなかった。

 

NATO

報道によれば,プーチンは昨年『ウクライナNATOに加盟することは,そこに核兵器を配備することと同様』との主旨を含む論文を書いたという.それが妥当な認識かどうかはともかく,NATO加盟国に米国の核兵器を持ち込むことが理論的にあり得るとすれば,プーチンウクライナNATO加盟に大いなる脅威を感じることも想定しなければならない.プーチンの頭にあるのは1962年のキューバ危機だろう.ソ連キューバ核兵器を持ち込もうとして米国が激怒し,核戦争直前にまで至った事件だ.そのときはソ連が妥協してキューバへの核兵器配備を諦めた.プーチンにしてみれば,今度は米国が妥協し,ウクライナNATO加盟を諦めさせるべきと考えるだろう.

 

このように考えてみれば(多少違っていたとしても),悪魔のプーチンにもプーチンなりの論理があることがわかる.それを無視してはいけない.先のチンピラの例でいえば,かつて約束を破ったことを(すでに一度詫びていたとしても,もう一度)詫び,ビジネスの失敗によって彼が経済的苦境に陥ったのだったら多少の援助をすべきだろう.それに準じて今回の件を考えてみれば,米国バイデンは,プーチンに対して強行一辺倒の対応をするのではなく,妥協の道を探るべきだったと私は思う.例えば,ウクライナNATOに入れないという妥協を選べば,悲惨な戦争は起きなかったはずだ.過去には,米国政府内部にも,ロシアを孤立化させる懸念からNATO拡大に反対する勢力もあった.そしてプーチンが米国との交渉で一番重視していたのはそのことなのだから.

 

Zelensky

大統領の最も大切な仕事が『より多くの国民の命を守ること』であるとすれば,ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領にも妥協は必要だった.ロシアに対して徹底抗戦すると宣言し,18歳から60歳までの男子を予備役として招集し,国民総動員でロシアと戦えば,西側諸国からは称賛の拍手を得るだろう.彼の評価も高まるだろう.だが,それは国民の命を守ることにつながらない.『民間人は火炎瓶を作ってロシア軍と戦え』と国民を鼓舞することは,婦女子に竹槍で米兵と戦えと命令した日本軍を思い起こさせる.国の独立と主権を守ることは重要ではあるが,何万,何十万,場合によっては何百万の国民の命を死に追いやってまで守るべきものであるとは,私は思わない.NATOには入らない,西側の一員にはならない,中立を守るとさえロシアに約束すれば,国民を一人も殺さずに済んだのだ.何万,何十万という命を無駄にせず済むはずなのだ.そんなふうにロシアと妥協して生きてきた国だってある.フィンランドだ.ウクライナと状況が全く同じというわけではないだろうが,政治的にフィンランドのように生きることを目指すのも可能だ.それこそ,不運にも悪魔の国の隣となった弱小国のリーダーが目指すべきことだろう.それは,将来の日本の生き方にもなり得るだろう.

 

プーチンは悪魔だ.だが,悪魔との妥協が必要なこともある.

 

 

ボーイング737MAXと経営者倫理

1月23日,日曜日,朝日新聞の一面トップ記事は紙面の半分を占めた上に,続く二面の2/3を埋めていた.オンラインでは次のURLで読むことができる.

 

(強欲の代償 ボーイング危機を追う)妻子奪った翼、資本主義の病 「金融マシン」化、失われた安全

https://www.asahi.com/articles/DA3S15181452.html

 

737MAX

2019年,小型旅客機ボーイング737MAXが立て続けに2つの墜落事故を起こした.そして後に,それらは737MAXの欠陥によるものと分かった.記事は一面でカナダ・トロントに住む男性の言葉を借りて事故の顛末を述べ,二面で株主中心資本主義社会におけるボーイング社の「金融マシン化」が背景にあること − "優等生的"な書き方をすればだが −  を明らかにしていく.別の見方をすれば,というより,私のものの考え方に従えば,それは背景ではなく事故の根本原因であったと言えるだろう.

 

詳細は記事を参照して欲しいのだが,簡単にいえば,エアバス社との競争に遅れを取ったボーイング社が,経営的な危機感から時間とコストを削減をするため技術的に正当と考えられる開発手段を取らず,無理な近道をしたということになる.その近道は狭義の開発,つまり設計・製造だけではない.同じように時間とコストがかかる規制当局の安全審査を省略し,パイロット訓練の省略によって顧客のコスト削減を実現するために - つまり有利な営業をするために - 詐欺的な開発コンセプトを営業トークとして押し通したのだ.

 

apartment

ただ,この簡単な説明だけでは問題の本質は見えてこないだろう.開発陣が正しい開発と安全審査をしなかったことが原因と理解されかねない.この種の事故でいつも繰り返されるように,例えば欠陥自動車や欠陥マンションや食品偽装事件などのように,事故の責任は一義的にプレッシャーに負けた開発担当者たち - その多くは技術者だが - にあるとされてしまう.そのように理解しがちな社会的構造があるからこそ,文部科学省は2005年の姉歯秀次建築士による耐震偽装事件のあと,すべての大学工学部に『技術者倫理教育』実施を強制したのだ.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%9B%B8%E5%81%BD%E9%80%A0%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

book

しかし,いくら理工系学生たちに技術者倫理教育をし,技術者の良心を守るように求めたところで,使用者である経営者たちの倫理観が薄ければ,経営者たちが株主最優先主義=利益至上主義に基づく会社経営をしていれば,同様の事件は繰り返し起こるだろう.ほとんどの技術者は会社員であり,生殺与奪を握る上司・会社・経営者の命令に従って仕事せざるを得ないからだ.ものを作る過程には物理的・化学的・生物学的なプロセスがあり,そのプロセスには神様にもなくすことのできない時間・空間・コスト的制約が必ずある.経営者たちが神に逆らってそれらの制約を無視し,株主が望む目標の達成を強制すれば,現場社員の選択肢は2つしかなくなる.会社の要求に従わずに自分の将来を失うか,自分あるいは家族のために不正をするかだ.姉歯秀次建築士設計事務所の代表で会社員ではなかったが,大企業の顧客が事務所の生殺与奪を握っていれば同じことだ.

 

『君は家族をMAXに乗せるか? 自分なら乗せない』 『こいつらをどう解決すればいいのか検討もつかない.これはシステムであり文化(の問題)なんだ.経営陣はビジネスをほとんど知らないくせに,明確な目標だけは押しつけてくる』

 

ボーイング社内でこのようなメッセージがやりとりされていたという.仕事を失いたくない現場社員にしてみればこうして愚痴をこぼすのがせいぜいであったろう.『技術者倫理教育』より前に,『経営者倫理教育』とその徹底が重要なのは明らかといってよいだろう.

 

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boeing

朝日新聞は,二面でボーイング社がなぜそこまで無理をして利益追求しなければならなかったかに踏み込む.それは現代に蔓延する,というより現代のビジネスマンには常識化してしまった『株主中心資本主義』の存在である.株主利益最大化を唯一の目的とする企業経営の一般化でもある.一昔前には当たり前だったはずの経営,社員を幸せにすることを目標として掲げる大会社は今ではほとんどない.社員(労働者)は企業が利益を上げて株主還元するために必要なコストに過ぎないから,たとえ黒字経営であってもギリギリまで人員削減を進める.正社員を非正規に置き換えて人件費を抑え,会社の利益を最大化する.流行りのITやAIはそのための道具である(私はもう退職したが,現役時代には自分の研究がそのように使われることに嫌気がさした).そのようにして最大化した利益から株主配当を増やし,役員報酬を増やす.十分な配当と役員報酬を支払ってもさらにお金が余るなら自社株買いをする.彼らの頭に,社員の給料を増やしたり非正規社員を正規社員に引き上げる考えは,全くない.

 

なぜ彼らは自社株を買うか(日本では2001年まで原則禁止であった).それは,市場に出回っている株を買ってそれを償却すれば市場の総株数が減り,一株あたりの利益や株主配当が増えるからである.そして配当が増えれば株式の価値が上がり,株価を押し上げるからである.そうやって,徹底的に株主の利益を追求するのが現代の資本主義,株主中心資本主義なのだ.

 

わが国における自己株式取得の規制緩和

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3123&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

 

stock buying

ボーイング社もその薄汚れた株式市場で "優良な" 会社と認められたい.だから開発コストを削って危うい旅客機を開発し,巧みなセールストークで売りまくって莫大な利益をあげた.気前よく株主配当し,自社株買いをしていた.手元資金がなければ借金してまで自社株買いをする会社 - スターバックスマクドナルド - まであるというのだから,負けてはいられなかったろう.最近の大企業経営者たちはストック・オプション(自社株をあらかじめ定められた価格で取得できる権利.株価が上がった後に売ればボロ儲け)を持ってるのが普通だから,株価が上がれば自分自身の利益にもなるのだ.

 

そんな企業経営をしていれば,技術開発がおそろかになるのは自明だ.例えば,燃費の良い航空機を作るには効率の良い新エンジンと軽い機体が必要だ.新エンジンの設計にも時間はかかるが,エンジンの効率を調べ,耐久性を調べ,安全性を確認するにはさらに多額の研究費と時間が必要だ.軽い機体を作るには機体の壁を薄くするか新材料を用いるかだろうが,やはりお金と時間をかけた実験・研究・検証が必要だ.

 

crash

必要な開発費を削ればどこかにしわ寄せが行く.安全のために必要な研究も検査も行えず,検討に必要な時間も削って無理を重ねれば,欠陥品ができ,事故が起きるのは当たり前といってよい.もしそのような状況の中で実際に事故が起きたとき,技術者にその責任を問うても彼らは肩をすくめるだけだろう.「危ないのは分かっていたよ」,「家族を自社の飛行機に乗せたいとは思わなかったよ」

 

株主中心資本主義が常識化してしまった現代において,もし人造物の欠陥により人の命が失われ,誰かが罰せられるべきだとするのなら,それを製造した会社の経営者以外にはないだろう.だからこそ,技術者倫理より前に,経営者倫理を徹底させなければならないのだ.

 

 

金融機関でのコイン取り扱い有料化

yuucho

1月17日から,ゆうちょ銀行がコインの預け入れや振り込みをする際に手数料を取るようになった.

以下のサイトから引用する.

 

 

 【ゆうちょ銀行 硬貨での預け入れや振り込みに手数料 きょうから】

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220117/k10013434661000.html

 

>> 窓口では硬貨の種類にかかわらず50枚までは無料ですが、

>> ▽51枚から100枚までは550円

>> ▽101枚から500枚までは825円

>> ▽501枚から1000枚までは1100円で

>> これより多い場合は500枚増えるごとに550円加算されます。

>> またATMで預け入れをする場合は、硬貨の種類にかかわらず1枚から手数料がかかります。

>> ▽1枚から25枚までは110円

>> ▽26枚から50枚までは220円

>> ▽51枚から100枚までは330円です。

 

例えば,窓口で1円玉100枚を預けようとすれば550円を手数料として取られる.ATMでさえ330円の手数料をとる.私自身は現金よりクレジットカードやスマホペイを好むこともあって,金融機関でコインを預けることはないのだが,それでも『え〜,ホントかよ』と思った.90歳を超えた私の母親は日々現金を使って生きているし,クレジットカードもスマホも持っていない.スーパーでは日々,鈴のついた財布を開いて,なるべくお釣りが少なくなるように,小銭を数えて支払いをしている.

記事を読んですぐに頭に浮かんだのは小学生の頃の記憶だ.月々の小遣いとして300円をもらっていたが,それは菓子や玩具を買うために使えるお金ではなく,学校で使う鉛筆や消しゴム,ノートなどを買うためのものだった.つまり,勉強で必要なものは小遣いの範囲内に抑えなさいということ.だから無駄遣いなどできない.お釣りでもらう1円玉は貯金箱にいれて貯めていた.

 

tombo

当時,横浜の下町の小学校で,同級生が持っていた鉛筆は一本10円のトンボ鉛筆三菱鉛筆が一本50円のユニという高級鉛筆を出していたが,それには手が届かない.1本5円のコーリン鉛筆もあったが,子どもたちは芯が折れやすいと言ってほとんど使ってなかった.私はとにかく安い鉛筆が欲しかったのだが,見栄もあるし,やはりコーリンでなくトンボ鉛筆が欲しかった.そんな私を助けてくれたのが近所の文房具屋だった.1円玉を80枚貯めていくとトンボ鉛筆1ダースと交換してくれたのだ.1本あたり6.7円.コーリンより高いが私にとっては神様のような文房具屋だった.

 

 【三菱鉛筆ユニ】

 https://www.nttcom.co.jp/comzine/no023/long_seller/index.html

 【コーリン鉛筆】

 http://karikachi.kitunebi.com/bungu/colleen/old_colleen.htm

 

mizutani

60年近く前の私だけではない.今でも1円玉や10円玉を貯めている子供たちがいる.子供たちだけではない.満額でも年額780,900円(令和3年)の国民年金だけで暮らしているお年寄りもいると聞く.社会の目立たないところで,爪に火を灯すようにして貯めたお金で生きている人たちがこの世の中には大勢いるのだ.夜回り先生こと,水谷修が『もう郵便局や銀行にはお金を預けない!』と怒っている.金融機関なしに生きることは現実には相当難しいので,私はそこまで言い切ることはできないが,本当に腹立たしく思う.

 

 【貯めた小銭で支払いする高齢者…背景に銀行や郵便局の手数料 憤る夜回り先生「もうお金は預けない。契約は解除する」】

 https://news.yahoo.co.jp/articles/69348715bdf328deb2a76a59883b396c1af959f4

 

水谷修が怒っているように,コインに対してて手数料を取るのはゆうちょ銀行だけではない.以下のサイトによれば,三菱UFJ銀行みずほ銀行は100枚まで,三井住友銀行は300枚まで手数料を取らないが,それ以上は550円の手数料を取っている.

 

 【各銀行のコイン取り扱い手数料】

 https://smbiz.asahi.com/article/14388478

 

金融機関は『コインの取り扱いは人件費や機械などのコストがかかる』と言い訳をするだろう.だがそれは理由にならない.コインの取り扱いが金融機関の本来業務でないならその言い訳は通用するかもしれない.だが,多くのお金を数えて正しく取り扱うこと − それは通貨の形態や大小を問わずに通貨が持つ価値をその価値として引き受けることを含む − は金融機関に必須の,いや必須以前に守らなければならぬ本質的な業務なのである.その本質的な業務をイヤイヤやる - 手数料くれなければヤラない - と言うのであれば,金融業をやめればよいのである.

もちろん,一般に,20枚以上の同一貨幣は受け取りを合法的に拒否できることは知っている.

 

>> 通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律

>> (法貨としての通用限度)

>>

>> 第七条  貨幣は、額面価格の二十倍までを限り、法貨として通用する。

 

 【「小銭は20枚を超えたら受け取れません」の誤解】

 https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20140616-00036114

 

しかし,一般の商店等であるならいざしらず,貨幣を分類し数える機械を常備しているであろう(ないなら常備すべき)金融機関にそれを許すことは私の倫理観では考えられない.手数料をとることも同様だ.先に述べたように,公的な金融機関が,通貨の形態を問わずに通貨が持つ価値を ”そのまま” 引き受けないとしたら,それはその国の公式な通貨とはとても呼べないと思うからだ.手数料を取るということは,そのまま価値を引きうけるのではなく,価値を減じていることになるからだ.

 

100歩譲って,三菱UFJ銀行みずほ銀行三井住友銀行のように,20枚以上あるいは100枚以上なら手数料を取ってよいと認めざるをえないにしても,コイン1枚から手数料を取るというゆうちょ銀行のやり方は許しがたい.

 

法律できちんと金融機関が守るべき義務を定め,規制すべきだろう.『規制緩和』とは国民の自由を奪う無意味な規制に対して行うべきであって,大企業や社会の強者による搾取から弱者を守る規制はしっかりと維持すべきである.

 

 

 

メリトクラシー

この2ヶ月ほど,ずっとブログはご無沙汰だった.定年の少し前からこのブログを始め,定年後は持て余した暇を潰すために書くというのが実情であったのだが,10月以降,週2回のボランティアと週1ペースの市民講座的なものに通い始めたためか,少しご無沙汰になった.とはいってもそれぞれの所要時間は2,3時間程度だから,それだけで,一ヶ月以上書かなかった説明にはならない.自分のことながら,おそらくは,たぶん,新聞やワイドショーで騒がれている時事的なコトに,かなりうんざりするようになってしまった点も大きいだろう.一つ一つの事柄は大事なコトであるのかもしれないが,いつもいつもその問題の根は同じであるような気がするのだ.つまりは権力の貪欲さと無能さ,大人の事情,勘違いの正義感,等々が原因である話題ばかりのような気がしてきて,まあどうでもいいか..と感じてしまうのだ.

 

今でも,何かを読んでいたり,見ていたり,朝方の寝覚め前,半覚醒状態のときにいろいろな想いが頭に浮かぶのだが,「仕事じゃないんだし,どうでもいいか」という感覚が根っこにあるためか,しばらくすると忘れてしまうのだ.跡形もなく.単に,老化しただけなのかもしれないが..

 

living

今回なんとか忘れなかった話題は,2021年12月3日の朝日新聞の「(耕論)生きるための能力?」.いつものように3人の論者にこれからの時代を生きるための能力について,記者が聞き書きしている.新聞では上段が廣津留すみれ,下段は鳥羽和久と会田弘継の二人である.

https://www.asahi.com/articles/DA3S15131138.html?iref=pc_rensai_long_chumoku_3

 

Sumire

上段の論者はいつもそうなのだが,廣津留すみれは,どこかで何度も聞いたような話,最近社会で主流となっている考えを述べる.世界で活躍するためには学力だけではなく,「人としての力」が必要だ.勉強以外の何か別のこと − 廣津留すみれの場合はバイオリン − に『努力して取り組んだ経験』と,それを『ポジティブな態度』で『熱意を持ってプレゼン』する能力,そしてそれによって『想像力』,『コミュニケーション能力』,『人柄』などが分かると.

 

はあ...そうですか.ご立派です.昨今,就職活動を始めた学生たちが,就職情報誌等で耳タコになるほど聞かされている内容もこんなだったと思う.米国の一流大学に入学して,GAFAMに就職し,若いエリートになるためにはきっとそれが必要なんでしょう.でもそれって,半分以上,生まれたときに決まってしまう能力だよね.好きな言葉じゃないけれど『親ガチャ』で当たった人だけが持てる能力.そういえば,親ガチャで当たった人たちの多くは,自分が運がよかったということを理解できてないらしいね.ハーバード白熱教室マイケル・サンデルや,上野千鶴子がそんなことを言ってたな.

https://www.amazon.co.jp/dp/B0922GS8SL/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 

Toba

鳥羽和久は,非認知能力 − 協調性,粘り強さ,創造性,コミュニケーション能力といった点数で測れない能力 − を子供たちの評価に組み込むのは危険だという.『本来複雑な人間を単純化して捉えることに直結』し,『真の意味で多様性を認める社会とは相いれない』からである.だから,鳥羽の塾では学業の成績を伸ばすことを重視する.そして主張する.『人間性に関わる事柄を,非認知能力という言葉にかこつけて伸ばす気はありません』,『この流れの先にあるのは,社会にとって都合の良い便利な存在だけが認められる,人間性が剥奪された社会ではないでしょうか』と.

 

shomin

ぼくは,鳥羽の考え方に全面的に賛成する.第二次大戦前,日本では義務教育(小学校6年と高等小学校2年)しか受けていない両親の子供が大学に進学するなどほとんど考えられなかった.戦後10年か20年でそれが可能な社会になったのは,もちろん日本が豊かになったことと大学の数が大幅に増えたこともあるが,日本の大学入試が,基本的に高校の授業科目に関する学力だけを見ていたことが大きい.貧しさは学力にも不利に働くが,それでも公立高校に通うだけの経済力があれば,本人の努力によって学力を上げることができる.勉強以外の何か別のことで人並み外れた成果を出したり国際的成果を上げるには,それがスポーツであろうと音楽であろうと,本人の努力を超えた親の経済力を必要とする場合がほとんどである.協調性,創造性,コミュニケーション能力,プレゼン能力といったものも,やはり経済力に裏付けられた家庭環境が大きく影響すると考えるのが妥当だろう.

 

Aida

会田弘継は,『成功こそ善であり,徳である』という米国社会の考え方と,それに起因する「メリトクラシー(meritocracy)」の問題点を指摘する.メリトクラシーは日本語だと能力主義実力主義と翻訳される.しかし,エリートたちが努力によって獲得したと思い込んでいる「能力」や「実力」は,特に非認知能力は,実は経済力のある家庭環境で育まれ,学費の高い私立学校や塾で鍛えられ,そうした運の良い者たちだけが入れる大学で大きく増幅される場合が多いのである.会田は『このまま能力主義を続けることは,さらに格差を拡大させ,非エリート層のうらみをかうだけ』という.オバマの「イエス,ウィーキャン」は『はいあがれない国民も多い現実を無視した能力主義的な言葉であり,今となっては無責任と言わざるをえません』とも言う.今やメリトクラシーの弊害は米国だけでなくグローバルに広がり,日本でもすでに蔓延しつつある.

 

能力主義は,世界における分断の主要原因の一つである.それは階層を生み,階層を固定し,階層の差を広げ,互いの理解を妨げ,妬みと憎しみと軽蔑を生み,社会を徹底的に分断する.

 

Sumire2

廣津留すみれさん,あなたは音楽も,学問も,ビジネスも,何でも一流にこなす超エリート才女だもの.ここに書いたようなこと,言われなくてもわかるよね.もしいつか時間に余裕ができたら,あなたのような能力を持てなかった気の毒な庶民たちのことを少し考えてみてください.

 

 

Someone You Loved - Lewis Capaldi

ひさしぶりに一人きりで何もせずに過ごす時間がポッカリとできたので,Youtubeで音楽を聞いた.そして今日とりあげるのは,Lewis Capaldi の Someone you loved.かなりのヒット曲らしいのだが,私は今まで聞いたことがなかった.

 

きっかけはLucy Thomasの動画.以前このブログでも取り上げたが,Lucy Thomasの透き通るような歌声と選曲,それに吸い込まれるような彼女の目が好きで,時々彼女の動画を見る(聞く)のだ.今回彼女が新たにアップしたカバー曲が Someone You Loved なのだが,特にその歌詞の内容に惹かれた.

 

 

画面の下に出る歌詞をじっくりと追い,知らない単語は調べて読んでいるうちに,オリジナルの歌手の歌も聞きたくなってYoutubeで探したのだ.それが Lewis Capaldi の Someone You Loved(たぶん).Lewis のカバーと比較するのは申し訳ないが,本家のこちらも本当に素晴らしい.

 

 

初めて聞いたこの歌に強く惹かれたのは何十年も前の古い記憶.この歌の主人公の状況とは同じでなかったが,歌詞を聞いているとそのときの胸の苦しさをくっきりと思い出す.苦しくて,苦しくて,このままでは生きていけないと思いつめ,丸2日か3日街を放浪したあげく,1週間寝込んだのだ.会社を休んで.また,ほんの少しだけ苦しくなった.