霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

紙飛行機 - 井上陽水

井上陽水といったら,50代半ば以降で知らない人はいないのではないかと思うぐらいに有名な歌手だ.ここではあまりにもメジャーな歌手や歌について書くことは避けようと思っているのだが,おそらく「紙飛行機」はそれほど知られている訳ではないと思うので,まあいいだろう.井上陽水の名がある程度知られるようになったのは,たぶん「人生が二度あれば」(1972)から.誰もが知るようになったのは「夢の中へ」(1973)の後だろう.

 

私が初めて井上陽水を聞いたのは1971年,高校1年生のときだった.いつも聞いていたFM東京から流れてきたのはアルバム「断絶」(1971)の中の「紙飛行機」(「センチメンタル」の中にもある).ちょうど初恋をして,失恋をして死んでしまいたくなっていたときだ.とはいっても単なるクラスメートへの片思いで,その娘がクラスの他の男子と付き合い始めたというそれだけのこと.今になってみれば稚すぎるほどの淡い恋なのだが,そんなときにFM東京から流れてきた「紙飛行機」がこころに深く染みたのだ.

 

学校にはもう行きたくない気持ちでいっぱいだった.だからちょうど慢性盲腸炎がちくちく痛みだしたのを幸いに,痛い痛いと大騒ぎして無理やり盲腸の手術に持ち込んだのだ.そして1週間ほど学校を休んだ.後ろめたさも多少は感じたが,学校から離れたいという気持ちで一杯だったから,医者から手術しましょうかと言われたときには本当に嬉しかった.平日の夕方,病院の窓から街を見下ろしていると,煩わしくて悲しい世の中から自分は切り離されているんだという不思議な幸せな感情に包まれた.

 

でも退院したちょうどその日,その娘を含む4,5人の女の子が病院に行ってみたけれどもう退院してた,と自宅まで見舞いに来たのだった.焦った.本当に焦った.公立とはいえ進学校だったので同級生には裕福な家庭の子どもたちが多く,その娘の父も大手企業の人事部長と聞いていたのだ.こちらの父は大手企業とはいえ,小学校卒の京浜工業地帯の工場の工員.座ってみれば誰もが傾いているとわかる六畳と四畳半の二間のボロ家に彼女たちを迎え入れ,もう夕食時だからと両親は近所のラーメン屋から味噌ラーメンの出前をとったのだった.恥ずかしかった.両親が悪いのでも,自分が悪いのでもないことはわかっている.でも,そのとき,死んでしまいたいほど恥ずかしかったのだ.

 

「紙飛行機」 

 

今となってはほとんど聞くことのない曲になった.でも時々聞くと,なんとも言えないあのときの甘酸っぱい高校時代の感情が蘇ってくる.

 

井上陽水 紙飛行機