霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

男と女

Man and Woman

男と女の話は難しい.それは何十年あるいは何百年という長い間,世界中の異なる文化圏で様々な視点から語られてきたからというだけではない.昨今,このテーマは政治臭を帯びているし,LGBTの問題もあって若い人たちの今どきの関心事にもなってしまったからだ.今回のタイトルは「男と女」ではなく「女と男」にしたほうがよいかな..などとセコイことを考えてはみたものの,リベラル・ファッションになってしまったジェンダーレス(genederless),ノンバイナリー(non-binary)あるいは,Gender fluidity まで含めて考えると,順序を入れ替えたぐらいではどうにもならんと思い,そのまま変えないことにした.

https://jobrainbow.jp/magazine/genderless

https://jobrainbow.jp/magazine/whatisnonbinary

https://www.fastgrow.jp/articles/genderfluidity

 

ノンバイナリーと似た言葉は,現役時代に仕事の中で使うことも時々あった.だが,それはコンピュータサイエンスの中でのこと.真か偽かの論理に基づく情報処理ではなく,不確実性や曖昧さを許容する数学理論に基づく情報処理のことである.その「ノンバイナリー」がセクシャリティの文脈で使われていると初めて知ったとき,頭によぎったのはヒッピー文化であった.

 

Hippie

ヒッピー.ここで短く適切に説明できるほどヒッピーに詳しいわけではないが,1950年代後半から70年代前半にかけて世界の若い人たちに広まったムーブメントあるいはカウンターカルチャーといえばよいだろうか.ヒッピー文化には様々な側面があったが,その中の一つに性の解放があった(そのほかにも,自然,共生,自由,愛,平和,非暴力,麻薬,ベトナム反戦などがヒッピーのキーワードだった).多くの若者は Love & Peaceの標語とピースサイン反戦音楽(フォーク・ロック)などに共感し影響を受けたと思うが,筋金入りのヒッピーたちはフリーセックス,バイセクシャル,恋人の共有などによってLove & Peaceを実践していた.愛と性は隠すべきものではなく人間にとって自然なものであるからと,米国でのウッドストック・フェスティバル(1969)では,大観衆の集まる芝生の上で性行為を行うヒッピーたちもいたらしい.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%90%E3%83%AB

 

高校1年のとき,どのようなきっかけだったか覚えていないが,クラスメート10人ほどで生まれ変わるなら男と女のどちらがよいか,という話をしたことがある.1971年だったと思う.日本でもウーマンリブ運動が始まり話題になり始めていたときである.女生徒たちは大半が男に生まれ変わりたいといい,残りは女がよいと答えたと思う.男たちは私を除く全員が男と答え,私だけが女に生まれたかったと言ったのだ.女生徒たちから批判がでた.しかし,私はこれからの新しい時代では女性の方が人生の選択肢がずっと多くなると考えていたのだ.

 

Kotobuki

それは,たまたまの思いつきではない.1971年の当時でも,これからは女性が会社で働いて生きていくことは可能だろうと思えた.働ければ結婚しなくてもすむだろうし(私の伯母がそうだった),会社で働きたくないなら専業主婦という手もある.作家や芸術家,スポーツ選手などへのチャレンジは多くが失敗に終わるだろうが,失敗後の人生を考えると女性の方がリスクがずっと小さかった.組織内で出世したいなどというくだらないことを考えなければ,自由に生きるハードルは女の方が男よりだいぶ低いように思えたのだ.それに,社会不適応でまともな生活ができない場合でも,浮浪者にまで落ちてしまうのは男のほうがずっと多い...横浜は,浮浪者の多い街だったのだ.

 

当時の私は − 今もほとんど変わらないが − 成長して大人になり,組織の中で働いて生きていくことに嫌悪感を持っていた.70年安保闘争で負け,「いちご白書をもう一度」の歌詞のように,おとなしく髪を切って企業に就職していった大学生たちに腹を立てていた.中学生の頃は機動隊と対峙する彼らを憧れの目で見ていたのだ.だから,その時の英雄たちに裏切られた気分だった.そんなこともあって,大きな組織に属さないで生きていくなら女性の方が選択肢が多いと考えていたのだ.

https://www.uta-net.com/song/97688/

 

Homeless

大学4年の時だったか,当時過激なフェミニストと言われていた小池真理子(今の彼女の小説からは想像がつかない)に心酔した女子学生と合コンの場で会ったことがある.小池真理子は当時,男たちにケンカを売るような内容の「知的悪女のすすめ」で有名になっていたのだが,小池に感化された彼女は合コンに来た男たちに議論をふっかけて煙たがられていた.ただ一人応戦したのは私で,結局,片隅で合コンが閉会になるまで延々と議論というか言い争いをしていたのである.議論の中身は全く覚えていないが,おそらくは職場や家庭でよくある男のずるさや不公平さに関する批判と反論だったと思う.なぜかはわからないが,その後彼女に小池真理子の講演会に誘われたのだった.

https://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi56.html

 

Rongo

この社会で男と女は公平に扱われていないのではないか,もっと本質的な問いをすれば,男と女は幸せの質と量において等しくないのではないか.その問いは常に吟味され,見直され,幸せの質と量がほぼ等しくなるように調整されるべきと私も思う.ただ,性別というものは,年齢や職業と同程度かそれ以上に,人間にとって『本質的な属性』であると思うのだ.今の日本ではアナクロ視されてしまうフレーズかもしれないが,「男なんだから命を張っても家族を守れ」,「お前は男なんだから母さんを守ってくれ」という考えは,歴史的に国や宗教を超える普遍的な考えであったし,「ママのアップルパイ」,「お母さんの味噌汁」も同様に普遍的である.年齢に関していえば,「三十にして立つ」,「四十にして惑わず」,「五十にして天命を知る」などの孔子の教えは,日本では今でも多くの者の人生指標になっているのではないだろうか.

 

履歴書に年齢と性別を書いてはいけない国もある.しかしそれは,あまりにもひどい性差別,年齢差別が蔓延していたためではないか.政治的には正しくないかもしれないが,逆説的に言えば,仕事のパフォーマンスについて性あるいは年齢により何らかの違いがあるからこそ差別が存在し,禁止せざるをえなくなったのかもしれない.

 

もちろん,純粋な偏見による差別だった可能性もある.しかし考えてみよう.初対面の人と会ったり,仕事したり,協力するとき,あるいは相手を深く理解する必要があるとき,とっかかりの情報として,性別,年令,職業は最も普遍的に使われる属性である.それは様々な判断や意思決定に『統計的』に役に立つからである.役に立つということは,様々なものがその属性に,統計的であるにせよ,依存しているからである.

 

女より男に乱暴者が多いという知識は,ほとんどの国で当てはまるだろう.女は男より優しい人が多い,男は女より怠け者が多い.細かい手仕事は女性の方が上手.個々の例は誤っているかもしれないが,性別や年令に依存する傾向は必ずある.

 

dear

なぜ人を含む生物が仲間たちの属性の違いを識別するのかといえば,一つには生殖のためであろう.そして,その副目的になるかもしれぬが,属性を識別することによって,統計的に何らかの能力の違いを認識できるからだろう.ある種の雌鹿は,雄鹿の角の立派さを見て相手を選ぶという.動物番組を見れば似たようは話は山ほどある.人間の場合は,年齢が違えば体力が違うし,経験も知識も年齢に依存するだろう.職業が違えば何を知っているか,何を重視するか,どのように考えるかが違うだろう.性別だって同様だ.何かが違うはずなのだ.そのことを否定したら,属性によって物事を効率よく判断することはできなくなるし,多くの人工知能システムも使えなくなる.

 

age

言い古されてきたことだが,また反動だと決めつけられかねないため思ってもなかなか口に出せないことだが,区別と差別は違う.違うことを認識することが学問の始まりでもあるのだ.そして合理的で公平な判断をするための基礎でもあるのだ.20歳と40歳と60歳と80歳では明らかに違う.年齢に独立な違いもあるが,年齢に依存する様々な違いもあるはずだ.電子回路設計者とウーバーの配達員では仕事の経験も知識も大きな違いがあるだろう.仕事の経験から得られた人生観も違うだろう.性別についても同様だ.そうした違いを無視してすべてを同じに扱うことが公平だとはいえない.

 

大切なのは,異なる属性を持つ人々を,合理的に客観的に偏見なく扱うことだ.その上で,恵まれない人々にあらゆる意味で優しい社会を作り上げること.幸せの質と量をなるべく同じにすること.趣味で宇宙旅行を考えるような大富豪からはより大きな税率で税金を取り,恵まれない人々に社会的分配を行うこと.そしてエッセンシャルワーカーに感謝し,お互いを尊重すること.

 

大切なのはそういうことだ.女と男の違いや性差別を云々するまえに,ジェンダーレスとかノンバイナリーとか珍妙な言葉を発明する前に,すべての人々に,それはつまり,優しくされていない弱い人々,あらゆるマイノリティのために優しい社会を作り上げることがまずは大切だ.すべての人々がそれさえ理解していれば,恋愛を除く男と女の社会的な問題は軽減され,多くは解決されるのではないか.それでも恋愛に関しては,男と女の間に深くて暗い谷はあるかもしれないが.