霞喰人の白日夢

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社会が求める「科学的根拠」

この1,2年,「科学的根拠」という言葉をテレビで聞くことが増えた.だいたいは「科学的根拠に基づかない○○」とか,「科学的根拠に基づいて○○を..する」のようなフレーズの中で使われている.○○には,例えば,「政策」,「判断」,「意見」,「治療」といった言葉が入ることが多い.地球温暖化やその原因,エネルギー政策,新型コロナウィルスの起源,感染予防,治療,生活習慣病放射線被曝の影響など,社会的に深刻な問題に関する論争の中で出てくることが多いようだ. 

 

今日は,現役時代,科学者(研究者)の端くれだったものとして,この「科学的根拠」という言葉について考えてみたい.

 

科学的根拠といっても,科学研究の場で使う「科学的根拠」と政治家やジャーナリストあるいは実務専門家たちが通常使う「科学的根拠」では意味が違う.時々テレビに出てくる科学者が解説の中で「科学的には..」というときには,前者の意味での「科学的根拠」に基づくことが普通だ.だから,テレビ番組などで,基礎研究者と現場の実務家(医者など)を同じ「専門家」として解説者に呼んだときには,それぞれの発言の「科学的根拠」は違っている.おそらく司会者がその違いを意識していることは稀だろう.

 

科学者が科学研究の場で使う「根拠」とは,理論研究であれば「公理」や「定理」や「普遍的な法則」,あるいはそれらから導かれた結論であるし,応用研究や実験研究あれば「客観性」と「再現性」と「普遍性」のある実験データや観測データ,あるいはそれらから導かれた結論である.科学についての詳細は以下を参照されたい.

  http://kjs.nagaokaut.ac.jp/yamada/info/science.pdf

 

ただし,「客観性」,「再現性」,「普遍性」と言っても,ある1つのデータや主張がそれらを満たすかどうかについて「誰が見ても完璧に明確」というわけにはいかない.考え方,見方,厳格性の程度によって,同じ分野の研究者間でも見解の相違が生じることはある.理論系は実験系より厳格であるし,同じ実験系でも分野が違えば厳格性の「さじ加減」がだいぶ違ってくる.だから,理論と応用の狭間や分野間の境界領域で研究していると,常にそうしたさじ加減を意識せざるを得ない.

 

では,政治やジャーナリズム,実務研究など,科学研究以外の場で使われる「科学的根拠」とは,上述のそれとどのように違うのだろうか.

 

まず注意すべきは,科学研究でない分野で議論するテーマは,定義が明確でない場合が大半だということ.定義が明確でなければ,当然ながら,それについての科学的に厳密に正しい結論や判断(正解)は存在しないといってよく,したがってどのような結論や判断であろうと科学的な意味での「科学的根拠」は存在し得ない.

 

konkyo

例えば,ある専門家(医療研究者,医療実務家,公衆衛生専門家等)が「新型コロナ感染症に関して緊急事態宣言を出すべきかどうか」と「科学的判断」を問われたとしよう.しかし,緊急事態宣言が何なのか明確でなければ(どのような行政的決定が行われるのか知らなければ),たとえ十分な科学的知見と科学的データがあったとしても,どの種類の専門家であろうと,科学的根拠を持って正しい判断を出せるはずはないといってよいだろう.

 

一般的には,法治国家の行政の長(首相)が国民に向かって「緊急事態だ!」と宣言するわけだから,おそらくは「法治」を超える行政命令 - 何かを我慢してくれという命令 - が出ると考えるのが普通だろうが,では,どの法律(憲法を含む)のどの条項を一時的に停止するのか,そしてどのような命令を出すのかが明確でなければ,専門家は出すべきかどうかの議論をできるはずがない.科学的根拠以前の話である.

 

テーマが明確に定義されている,あるいは専門家が定義を自由に決めてよいと仮定したとして,その判断に求められる「科学的根拠」とはどのようなものだろうか.少なくとも,科学研究の世界で求められる厳密な意味での「根拠」とは違うだろう.つまり,社会的・行政的問題において2値論理的に絶対に誤りのない根拠は通常ありえないし,全く同条件での多数の繰り返し試行(社会実験)は不可能だろうから「統計的に正しい根拠」を得ることもできないだろう.

 

では,TV評論家たちが「科学的根拠に基づいた政策を」と発言するとき,具体的には何を求めているのだろうか.それは,「現実を見ろ.そして現実に基づいた政策を」ということに尽きるのではないか.新型コロナ対策の判断の場合なら,感染状況をしっかり見ろ,病院の切迫状況を見ろ,入院できない人が自宅で不安なまま放置されていたり,自宅で重症化して命を失う人が出てることをしっかり見ろ.そしてその状況を改善することを最優先政策にしろ,ということだろう.それは,オリンピックがあるから非常事態宣言を出したくないとか,オリンピック後の総裁選で有利になる状況にしたいとか,国民の命とは直接に関係しないことで政策を決めるなということである.

 

jinnryu

そうであれば,社会一般が求める「科学的根拠」とは,「見るべき現実」と言い換えてもよいだろう.最近流行りの「データ」と言ってもよいかもしれぬが,ここで本質的なのはデータではなく「現実」である.科学者のように定量的な評価をするのでなければ,データとは「現実」を認識するための補助的情報に過ぎない.例えば,現実とは「感染者数が急激に増えている」,「緊急事態宣言を出しても人流は殆ど減っていない」,「過去の経験によれば,現在の人流が新たな感染数を決め,その結果が1,2週間後に感染者数として表れる」などである.その現実を知る補助情報が感染者数データであり,人流データである.

 

そして,現実に基づいた「国民の命を守るために必要と考えられる判断」=合理的な判断を国民は期待している.この「現実に基づく合理的な判断」は,厳密な意味での科学的な根拠に基づく「科学的な判断」とは異なる.「(A)人流が増えると感染者が増える」という経験から「(B)感染者を減らすために人流を抑えよう」と結論するのは「合理的な判断」であったとしても,必ずしも科学的ではない.論理学的に(A)から (B)を導くことはできないし,統計的にも(B)が正しいとは証明されていないし,実際に証明することもできないだろうから.

 

現実の政治・社会では,必ずしも「科学的な根拠に基づく科学的な判断」をする必要はないのだ.その代わりに必要なのは「国民が納得できるたぶん正しい合理的な判断」である.現実問題として,「科学的な根拠に基づく科学的な判断」をするためには,膨大な手間暇をかけた実験と観測が必要であるため,時間的に,金銭的に,非現実的な場合が多いのだ.

 

最大の悲劇の1つは,「国民が納得できるたぶん正しい合理的な判断」が必要で,それが十分可能であるときに,「(厳密な)科学的な根拠」が得られていないからと,行政や専門家が「科学的に正しくない」と言い張って「たぶん正しい合理的な判断」の実施を妨げるときである.例えば,厚労省は「PCR検査を感染の疑いのない人達にまで拡充したって科学的に何の意味もない」とコロナ禍が始まってから現在に至るまで,PCR検査の拡充を妨げている.世界を見回してもそのような国・政府はほとんどないのに.

 

IVM

イベルメクチンやアビガンといった治療薬もそうだろう.これらの治療薬は,厳密に科学的には新型コロナに有効と証明されていない.様々な事情により十分な治験ができていないからだ.しかし,特にイベルメクチンは,感染初期と予防に有効であることを示唆するデータは山ほどある.しかも錠剤のため服用は簡単で,大きな副作用がないことは寄生虫治療薬としての実績により保証されている.入院もできずに自宅で放置されている感染者に処方するにはうってつけだ.仮に有効性がほとんどなかったとしてもでも,害はほとんどない.ワクチンよりもはるかに安全であるのだ.

  https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/cknews/20210427-OYT8T50019/

  https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210712/se1/00m/020/002000d

  https://covid19criticalcare.com/ja/

 

 

kouroushou

厚労省は,薬害(サリドマイド,スモン,エイズ等)や公害(水俣病四日市ぜんそくイタイイタイ病原爆症等)の被害が起きたとき,いつも「被害症状と薬/公害の関係は科学的に証明されていない」と言い放って被害者を放置してきた.今回は「PCR検査の拡充は科学的に意味はない」,「治療薬の効果は科学的に証明されてない」と国民を放置する.

 

厚労省は,上記の薬害・公害事件の隠蔽・過小評価に加え,年金原資流用問題とか,消えた年金問題など,過去にも国家犯罪的不祥事を何度も起こしている.

 

なんていうか,とんでもない国に生まれてしまったなあ...

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%9A%84%E5%B9%B4%E9%87%91%E6%B5%81%E7%94%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%87%91%E8%A8%98%E9%8C%B2%E5%95%8F%E9%A1%8C