霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

スポーツと体罰と気合

stop olympic

私の記憶では,東京五輪の直前まで,テレビのニュースショー/ワイドショーの多くは五輪開催を懸念していた.少なくとも1ヶ月ほど前までは,開催延期や中止を求める番組が多かったのではないかと思う.しかし五輪が始まってからというもの,私の1ヶ月前の記憶はうたかたの夢であったかのように,テレビ映像はオリンピック一色になった.そしてお決まりのように,これでもかというほどに,メダルを獲得した選手たちの感動物語を流される.「多様性と協調」という五輪のテーマを,つまみ食いのようにときどき織り交ぜながら.

 

結局何も変わっていない...

 

暑苦しい日々が続く中で,ハフィントン・ポストに,試合直前にコーチが選手を平手打ちして国際柔道連盟がコーチに厳重注意をしたとのニュースが載った.ニュースを読む前にその動画を見てもらう方がよいかもしれない.

 

「平手打ち」とされる動画

https://twitter.com/michaljadczak/status/1419939509911830530

 

ハフィントン・ポストのニュースがこれ.

https://www.huffingtonpost.jp/entry/judo-reprimands-slapping-athlete_jp_6101fd96e4b000b997ddf5ff?utm_source=Sailthru&utm_medium=email&utm_campaign=JAPAN20210730&utm_term=jp-daily-brief

 

おそらくだが,中年以上の多くの日本人はこの動画を見ても「このコーチの行為の何が問題なのだ」という気持ちが湧くのではないだろうか.「これが平手打ち?」と言いたくなる人もいるだろう.

 

sports

私は「スポーツ」というものがあまり好きではない.もちろん健康のため多少の「運動」はするし,「遊び」としてスノボやテニスをすることは楽しい.だが,多種多様なキレイゴトや苦労話や臭い美談,そして見栄や下心や虚栄心がへばりついた「スポーツ」というものが大嫌いなのだ.「アスリート」という日本語も,「アーチスト」という日本語と同様,本人たちが口にするのを聞くだけで虫唾が走る.たとえ動画の柔道選手の立場にいたとしても,同じように頬を叩かれたいとは決して思わない.しかし,柔道を始めとする格闘技の選手たちの間ではごく普通に行われる「気合」を入れるたぐいの行為ではないかと思うのだ.

 

fire

この「どうってことないじゃん!」という自分の感覚.もしかしたらこれは,根性主義や気合主義がまかり通った日本の古いスポーツシーンに慣れ過ぎて不感症になってしまったからなのかもしれない..そんなふうに少し不安に思って他国人のコメントを見てみた.必ずしもコーチを非難するコメントばかりではないようだ.ツイッター動画に対するコメントは大半がポーランド語(?)のようで全く理解できないのだが,以下のサイトを見るとコーチを擁護するコメントも多いことがわかる.

https://home.kingsoft.jp/news/ent/getnews/3066689.html

 

Martina Tridos

「平手打ち」をされた本人,マルティナ・トライドス選手も,インスタグラムで「As I already said that’s the ritual which I chose pre competition ! My coach is just doing what I want him to do to fire me up!」と言う.翻訳すれば「いつもいうように,これは私の試合前の儀式.コーチは,気合を入れるために,私が望んでいることをしただけ.」

https://www.instagram.com/p/CR1VL4nqyy6/?utm_source=ig_embed&utm_campaign=embed_video_watch_again

 

それでも国際柔道連盟は「柔道は教育的スポーツであって,柔道の倫理コードに反するそのような行いは許されない」と言う.動画コメントの中にも「世界中に放送された暴力」,「時代遅れのコーチ」,「選手に頼まれたとしてもコーチは拒否すべき」といった否定的な意見がある.

https://twitter.com/Judo/status/1420283176727969801?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1420283176727969801%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fwww.huffingtonpost.jp%2Fentry%2Fjudo-reprimands-slapping-athlete_jp_6101fd96e4b000b997ddf5ff

 

Political Correctness

明らかに分断が起きている.昨今,政治や社会の様々な事柄に関して起きている社会的分断だ.

今回の図式は私の解釈ではこうだ.グローバルにポリティカル・コレクトネスを求める人々が,清く正しく,いわば原理主義的に,外形的に,この物理的接触を暴力とみなし,それを絶対悪とする.一方で,特定の文化の中で個別的習慣に従って生きる人々は,自分の経験に基づいた価値観の継続性を重視し,個別文化的文脈を無視した外形的判断を否定し,自分たちの内的善意を守ろうとする.ある意味では,グローバリズムローカリズムの価値観の衝突と言ってよいだろう.

 

国際柔道連盟は「教育的スポーツ」という言葉がを使ったが,この「教育」という言葉は象徴的だ.日本では昭和30年代,40年代の小中学校において,教室内での叱責はもちろん,廊下や教室の後ろに立たせる行為,正座,ハリセン,梅干し(コメカミをげんこつでグリグリする行為),うさぎ跳び,校庭1,2周のランニングは,すべてとは言わずとも,普通の教師が罰として命じることであり,珍しいことではなかった.暴力教師と呼ばれる教師も各校に一人や二人いたと思うが,それは力いっぱいのビンタ,ゲンコツ殴り,回し蹴り,バケツの水を頭からかけるなどをする教師のことであった(横浜の下町の話).

 

panishment

「暴力」の基準が今とは全く違っていた.当時は悪いことをすれば罰があって当たり前.罰はなんらかの精神的あるいは肉体的な痛みを与えるものであるのは当然で(そうでなければ罰にはならない),それが一時的で,過度でなく,その場かぎりのものであれば,悪い行為に対する「罰」として子どもたちの管理・制御に使ってよいものであった.暴力とは,身体的または精神的苦痛に加えて恐怖を感じさせるもので,一時的な痛み以上の肉体的/精神的な傷を与えかねないものである.少なくとも昭和に生まれ育ち,しつけを受けた私には,罰としての起立や正座や,自分で頬を叩く程度のビンタが「暴力」であるとは思えない.それらのしつけなしに,現在の自分があるとも思えない.

 

supermarket

しかし,現在の社会では,私のような考え・感覚を持つものが少数派になりつつあることは認識している.一回り違う私の配偶者は私の暴力感には全く同意しない.私から見れば彼女は原理主義的暴力否定論者で,子供に体罰を与えることを絶対悪として反対していた.私は,何度叱っても同じことを繰り返す子供を言葉のみで正すことがが常に可能とは思わない.時には体罰を伴って叱られ育った昔の日本人が,体罰なしに育てられた現代の日本人と比べて,人間的に劣っているとも思わないし,不幸であったとも思わない.褒めて育てるという主張にいたっては,そうして育った大人達が大停電になると集団でスーパーを襲撃し,解雇されると職場で乱射するアメリカ人たちだろう,と毒づきたくなる.

 

Emmanuel Todd

フランスの人口統計学者,エマニュエル・トッドによれば,家族型として英米は絶対的核家族の社会だという.彼らの基本的価値は自由であり,個人主義であり,親と子は互いに独立的で,子供の教育には熱心でない.日本やドイツ(そういえば,動画で非難されたコーチ,クラウディウ・プーサはドイツ人だ)は直系家族の社会で,基本的価値は権威と不平等,子供の教育には熱心である.英米と日本では社会や家族の基本的価値感が全く違うのだ.家族や疑似家族内での教育やしつけ,罰に対する考え方も違うだろう.単純に英米における標準的な考え方 - 教育にしても暴力にしても - を取り入れればそれでよいという訳ではなかろう.

 

結局のところ,世界は,経済や学問やスポーツを超えて,人生観も価値観もすべてがグローバル化,つまり英米化し,均一化するのだろう.それはつまり,地域経済や地域文化や地域言語を破壊し,のっぺりとした均一な世界を作り,善悪を含めた価値観も英米のそれに支配されざるをえなくなるのだろう.

 

頑固ジジイには辛い世の中だ.