霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

横浜ホンキー・トンク・ブルース - エディ藩

今日は,横浜ホンキートンクブルース.

初めて聞いたのはいつだったか,誰が歌っていたのかも覚えていない.作詞をした藤竜也が歌うのをテレビで聞いたのが最初だった気もするし,原田芳雄のLPレコードで聞いたのが最初だったかもしれない.いずれにしても,非常に多くの歌手が歌っている.有名どころだけでも,藤竜也(作詞者),エディ藩(作曲者),原田芳雄松田優作山崎ハコ萩原健一,宇崎竜童,石黒ケイ..などなど.

 

最初にオリジナルとして歌ったのはだれだろうか.1960年代のグループサウンズが全盛だった頃から活動していて,エディ藩がメンバーの一人だったザ・ゴールデン・カップスが最初かもしれぬが,このあたりのことはよくわからない.

 

若い頃によく聞いたのはLPレコードを持っていたこともあって原田芳雄バージョン.原田の歌もとても好きなのだが,Youtubeで聴き比べをするようになってから一番好きになったのは,やはりエディ藩.

 

今日のYouTubeは,エディ藩が若かったであろう頃のバージョンと,最近(といっても6年ほどまえ)の大岡川桜まつりのときの映像.私もせっかく横浜に戻ってきたので,可能であれば来年は大岡川桜まつりで聞きたい.それからもっとも好きな男優の一人でもある原田芳雄のコンサート.そして最後は藤竜也.しぶいセリフが歌の間に入っている.

 

エディ藩1

 

エディ藩2

 

原田芳雄

 

藤竜也

 

 

スポーツと体罰と気合

stop olympic

私の記憶では,東京五輪の直前まで,テレビのニュースショー/ワイドショーの多くは五輪開催を懸念していた.少なくとも1ヶ月ほど前までは,開催延期や中止を求める番組が多かったのではないかと思う.しかし五輪が始まってからというもの,私の1ヶ月前の記憶はうたかたの夢であったかのように,テレビ映像はオリンピック一色になった.そしてお決まりのように,これでもかというほどに,メダルを獲得した選手たちの感動物語を流される.「多様性と協調」という五輪のテーマを,つまみ食いのようにときどき織り交ぜながら.

 

結局何も変わっていない...

 

暑苦しい日々が続く中で,ハフィントン・ポストに,試合直前にコーチが選手を平手打ちして国際柔道連盟がコーチに厳重注意をしたとのニュースが載った.ニュースを読む前にその動画を見てもらう方がよいかもしれない.

 

「平手打ち」とされる動画

https://twitter.com/michaljadczak/status/1419939509911830530

 

ハフィントン・ポストのニュースがこれ.

https://www.huffingtonpost.jp/entry/judo-reprimands-slapping-athlete_jp_6101fd96e4b000b997ddf5ff?utm_source=Sailthru&utm_medium=email&utm_campaign=JAPAN20210730&utm_term=jp-daily-brief

 

おそらくだが,中年以上の多くの日本人はこの動画を見ても「このコーチの行為の何が問題なのだ」という気持ちが湧くのではないだろうか.「これが平手打ち?」と言いたくなる人もいるだろう.

 

sports

私は「スポーツ」というものがあまり好きではない.もちろん健康のため多少の「運動」はするし,「遊び」としてスノボやテニスをすることは楽しい.だが,多種多様なキレイゴトや苦労話や臭い美談,そして見栄や下心や虚栄心がへばりついた「スポーツ」というものが大嫌いなのだ.「アスリート」という日本語も,「アーチスト」という日本語と同様,本人たちが口にするのを聞くだけで虫唾が走る.たとえ動画の柔道選手の立場にいたとしても,同じように頬を叩かれたいとは決して思わない.しかし,柔道を始めとする格闘技の選手たちの間ではごく普通に行われる「気合」を入れるたぐいの行為ではないかと思うのだ.

 

fire

この「どうってことないじゃん!」という自分の感覚.もしかしたらこれは,根性主義や気合主義がまかり通った日本の古いスポーツシーンに慣れ過ぎて不感症になってしまったからなのかもしれない..そんなふうに少し不安に思って他国人のコメントを見てみた.必ずしもコーチを非難するコメントばかりではないようだ.ツイッター動画に対するコメントは大半がポーランド語(?)のようで全く理解できないのだが,以下のサイトを見るとコーチを擁護するコメントも多いことがわかる.

https://home.kingsoft.jp/news/ent/getnews/3066689.html

 

Martina Tridos

「平手打ち」をされた本人,マルティナ・トライドス選手も,インスタグラムで「As I already said that’s the ritual which I chose pre competition ! My coach is just doing what I want him to do to fire me up!」と言う.翻訳すれば「いつもいうように,これは私の試合前の儀式.コーチは,気合を入れるために,私が望んでいることをしただけ.」

https://www.instagram.com/p/CR1VL4nqyy6/?utm_source=ig_embed&utm_campaign=embed_video_watch_again

 

それでも国際柔道連盟は「柔道は教育的スポーツであって,柔道の倫理コードに反するそのような行いは許されない」と言う.動画コメントの中にも「世界中に放送された暴力」,「時代遅れのコーチ」,「選手に頼まれたとしてもコーチは拒否すべき」といった否定的な意見がある.

https://twitter.com/Judo/status/1420283176727969801?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1420283176727969801%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fwww.huffingtonpost.jp%2Fentry%2Fjudo-reprimands-slapping-athlete_jp_6101fd96e4b000b997ddf5ff

 

Political Correctness

明らかに分断が起きている.昨今,政治や社会の様々な事柄に関して起きている社会的分断だ.

今回の図式は私の解釈ではこうだ.グローバルにポリティカル・コレクトネスを求める人々が,清く正しく,いわば原理主義的に,外形的に,この物理的接触を暴力とみなし,それを絶対悪とする.一方で,特定の文化の中で個別的習慣に従って生きる人々は,自分の経験に基づいた価値観の継続性を重視し,個別文化的文脈を無視した外形的判断を否定し,自分たちの内的善意を守ろうとする.ある意味では,グローバリズムローカリズムの価値観の衝突と言ってよいだろう.

 

国際柔道連盟は「教育的スポーツ」という言葉がを使ったが,この「教育」という言葉は象徴的だ.日本では昭和30年代,40年代の小中学校において,教室内での叱責はもちろん,廊下や教室の後ろに立たせる行為,正座,ハリセン,梅干し(コメカミをげんこつでグリグリする行為),うさぎ跳び,校庭1,2周のランニングは,すべてとは言わずとも,普通の教師が罰として命じることであり,珍しいことではなかった.暴力教師と呼ばれる教師も各校に一人や二人いたと思うが,それは力いっぱいのビンタ,ゲンコツ殴り,回し蹴り,バケツの水を頭からかけるなどをする教師のことであった(横浜の下町の話).

 

panishment

「暴力」の基準が今とは全く違っていた.当時は悪いことをすれば罰があって当たり前.罰はなんらかの精神的あるいは肉体的な痛みを与えるものであるのは当然で(そうでなければ罰にはならない),それが一時的で,過度でなく,その場かぎりのものであれば,悪い行為に対する「罰」として子どもたちの管理・制御に使ってよいものであった.暴力とは,身体的または精神的苦痛に加えて恐怖を感じさせるもので,一時的な痛み以上の肉体的/精神的な傷を与えかねないものである.少なくとも昭和に生まれ育ち,しつけを受けた私には,罰としての起立や正座や,自分で頬を叩く程度のビンタが「暴力」であるとは思えない.それらのしつけなしに,現在の自分があるとも思えない.

 

supermarket

しかし,現在の社会では,私のような考え・感覚を持つものが少数派になりつつあることは認識している.一回り違う私の配偶者は私の暴力感には全く同意しない.私から見れば彼女は原理主義的暴力否定論者で,子供に体罰を与えることを絶対悪として反対していた.私は,何度叱っても同じことを繰り返す子供を言葉のみで正すことがが常に可能とは思わない.時には体罰を伴って叱られ育った昔の日本人が,体罰なしに育てられた現代の日本人と比べて,人間的に劣っているとも思わないし,不幸であったとも思わない.褒めて育てるという主張にいたっては,そうして育った大人達が大停電になると集団でスーパーを襲撃し,解雇されると職場で乱射するアメリカ人たちだろう,と毒づきたくなる.

 

Emmanuel Todd

フランスの人口統計学者,エマニュエル・トッドによれば,家族型として英米は絶対的核家族の社会だという.彼らの基本的価値は自由であり,個人主義であり,親と子は互いに独立的で,子供の教育には熱心でない.日本やドイツ(そういえば,動画で非難されたコーチ,クラウディウ・プーサはドイツ人だ)は直系家族の社会で,基本的価値は権威と不平等,子供の教育には熱心である.英米と日本では社会や家族の基本的価値感が全く違うのだ.家族や疑似家族内での教育やしつけ,罰に対する考え方も違うだろう.単純に英米における標準的な考え方 - 教育にしても暴力にしても - を取り入れればそれでよいという訳ではなかろう.

 

結局のところ,世界は,経済や学問やスポーツを超えて,人生観も価値観もすべてがグローバル化,つまり英米化し,均一化するのだろう.それはつまり,地域経済や地域文化や地域言語を破壊し,のっぺりとした均一な世界を作り,善悪を含めた価値観も英米のそれに支配されざるをえなくなるのだろう.

 

頑固ジジイには辛い世の中だ.

 

 

社会が求める「科学的根拠」

この1,2年,「科学的根拠」という言葉をテレビで聞くことが増えた.だいたいは「科学的根拠に基づかない○○」とか,「科学的根拠に基づいて○○を..する」のようなフレーズの中で使われている.○○には,例えば,「政策」,「判断」,「意見」,「治療」といった言葉が入ることが多い.地球温暖化やその原因,エネルギー政策,新型コロナウィルスの起源,感染予防,治療,生活習慣病放射線被曝の影響など,社会的に深刻な問題に関する論争の中で出てくることが多いようだ. 

 

今日は,現役時代,科学者(研究者)の端くれだったものとして,この「科学的根拠」という言葉について考えてみたい.

 

科学的根拠といっても,科学研究の場で使う「科学的根拠」と政治家やジャーナリストあるいは実務専門家たちが通常使う「科学的根拠」では意味が違う.時々テレビに出てくる科学者が解説の中で「科学的には..」というときには,前者の意味での「科学的根拠」に基づくことが普通だ.だから,テレビ番組などで,基礎研究者と現場の実務家(医者など)を同じ「専門家」として解説者に呼んだときには,それぞれの発言の「科学的根拠」は違っている.おそらく司会者がその違いを意識していることは稀だろう.

 

科学者が科学研究の場で使う「根拠」とは,理論研究であれば「公理」や「定理」や「普遍的な法則」,あるいはそれらから導かれた結論であるし,応用研究や実験研究あれば「客観性」と「再現性」と「普遍性」のある実験データや観測データ,あるいはそれらから導かれた結論である.科学についての詳細は以下を参照されたい.

  http://kjs.nagaokaut.ac.jp/yamada/info/science.pdf

 

ただし,「客観性」,「再現性」,「普遍性」と言っても,ある1つのデータや主張がそれらを満たすかどうかについて「誰が見ても完璧に明確」というわけにはいかない.考え方,見方,厳格性の程度によって,同じ分野の研究者間でも見解の相違が生じることはある.理論系は実験系より厳格であるし,同じ実験系でも分野が違えば厳格性の「さじ加減」がだいぶ違ってくる.だから,理論と応用の狭間や分野間の境界領域で研究していると,常にそうしたさじ加減を意識せざるを得ない.

 

では,政治やジャーナリズム,実務研究など,科学研究以外の場で使われる「科学的根拠」とは,上述のそれとどのように違うのだろうか.

 

まず注意すべきは,科学研究でない分野で議論するテーマは,定義が明確でない場合が大半だということ.定義が明確でなければ,当然ながら,それについての科学的に厳密に正しい結論や判断(正解)は存在しないといってよく,したがってどのような結論や判断であろうと科学的な意味での「科学的根拠」は存在し得ない.

 

konkyo

例えば,ある専門家(医療研究者,医療実務家,公衆衛生専門家等)が「新型コロナ感染症に関して緊急事態宣言を出すべきかどうか」と「科学的判断」を問われたとしよう.しかし,緊急事態宣言が何なのか明確でなければ(どのような行政的決定が行われるのか知らなければ),たとえ十分な科学的知見と科学的データがあったとしても,どの種類の専門家であろうと,科学的根拠を持って正しい判断を出せるはずはないといってよいだろう.

 

一般的には,法治国家の行政の長(首相)が国民に向かって「緊急事態だ!」と宣言するわけだから,おそらくは「法治」を超える行政命令 - 何かを我慢してくれという命令 - が出ると考えるのが普通だろうが,では,どの法律(憲法を含む)のどの条項を一時的に停止するのか,そしてどのような命令を出すのかが明確でなければ,専門家は出すべきかどうかの議論をできるはずがない.科学的根拠以前の話である.

 

テーマが明確に定義されている,あるいは専門家が定義を自由に決めてよいと仮定したとして,その判断に求められる「科学的根拠」とはどのようなものだろうか.少なくとも,科学研究の世界で求められる厳密な意味での「根拠」とは違うだろう.つまり,社会的・行政的問題において2値論理的に絶対に誤りのない根拠は通常ありえないし,全く同条件での多数の繰り返し試行(社会実験)は不可能だろうから「統計的に正しい根拠」を得ることもできないだろう.

 

では,TV評論家たちが「科学的根拠に基づいた政策を」と発言するとき,具体的には何を求めているのだろうか.それは,「現実を見ろ.そして現実に基づいた政策を」ということに尽きるのではないか.新型コロナ対策の判断の場合なら,感染状況をしっかり見ろ,病院の切迫状況を見ろ,入院できない人が自宅で不安なまま放置されていたり,自宅で重症化して命を失う人が出てることをしっかり見ろ.そしてその状況を改善することを最優先政策にしろ,ということだろう.それは,オリンピックがあるから非常事態宣言を出したくないとか,オリンピック後の総裁選で有利になる状況にしたいとか,国民の命とは直接に関係しないことで政策を決めるなということである.

 

jinnryu

そうであれば,社会一般が求める「科学的根拠」とは,「見るべき現実」と言い換えてもよいだろう.最近流行りの「データ」と言ってもよいかもしれぬが,ここで本質的なのはデータではなく「現実」である.科学者のように定量的な評価をするのでなければ,データとは「現実」を認識するための補助的情報に過ぎない.例えば,現実とは「感染者数が急激に増えている」,「緊急事態宣言を出しても人流は殆ど減っていない」,「過去の経験によれば,現在の人流が新たな感染数を決め,その結果が1,2週間後に感染者数として表れる」などである.その現実を知る補助情報が感染者数データであり,人流データである.

 

そして,現実に基づいた「国民の命を守るために必要と考えられる判断」=合理的な判断を国民は期待している.この「現実に基づく合理的な判断」は,厳密な意味での科学的な根拠に基づく「科学的な判断」とは異なる.「(A)人流が増えると感染者が増える」という経験から「(B)感染者を減らすために人流を抑えよう」と結論するのは「合理的な判断」であったとしても,必ずしも科学的ではない.論理学的に(A)から (B)を導くことはできないし,統計的にも(B)が正しいとは証明されていないし,実際に証明することもできないだろうから.

 

現実の政治・社会では,必ずしも「科学的な根拠に基づく科学的な判断」をする必要はないのだ.その代わりに必要なのは「国民が納得できるたぶん正しい合理的な判断」である.現実問題として,「科学的な根拠に基づく科学的な判断」をするためには,膨大な手間暇をかけた実験と観測が必要であるため,時間的に,金銭的に,非現実的な場合が多いのだ.

 

最大の悲劇の1つは,「国民が納得できるたぶん正しい合理的な判断」が必要で,それが十分可能であるときに,「(厳密な)科学的な根拠」が得られていないからと,行政や専門家が「科学的に正しくない」と言い張って「たぶん正しい合理的な判断」の実施を妨げるときである.例えば,厚労省は「PCR検査を感染の疑いのない人達にまで拡充したって科学的に何の意味もない」とコロナ禍が始まってから現在に至るまで,PCR検査の拡充を妨げている.世界を見回してもそのような国・政府はほとんどないのに.

 

IVM

イベルメクチンやアビガンといった治療薬もそうだろう.これらの治療薬は,厳密に科学的には新型コロナに有効と証明されていない.様々な事情により十分な治験ができていないからだ.しかし,特にイベルメクチンは,感染初期と予防に有効であることを示唆するデータは山ほどある.しかも錠剤のため服用は簡単で,大きな副作用がないことは寄生虫治療薬としての実績により保証されている.入院もできずに自宅で放置されている感染者に処方するにはうってつけだ.仮に有効性がほとんどなかったとしてもでも,害はほとんどない.ワクチンよりもはるかに安全であるのだ.

  https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/cknews/20210427-OYT8T50019/

  https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210712/se1/00m/020/002000d

  https://covid19criticalcare.com/ja/

 

 

kouroushou

厚労省は,薬害(サリドマイド,スモン,エイズ等)や公害(水俣病四日市ぜんそくイタイイタイ病原爆症等)の被害が起きたとき,いつも「被害症状と薬/公害の関係は科学的に証明されていない」と言い放って被害者を放置してきた.今回は「PCR検査の拡充は科学的に意味はない」,「治療薬の効果は科学的に証明されてない」と国民を放置する.

 

厚労省は,上記の薬害・公害事件の隠蔽・過小評価に加え,年金原資流用問題とか,消えた年金問題など,過去にも国家犯罪的不祥事を何度も起こしている.

 

なんていうか,とんでもない国に生まれてしまったなあ...

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%9A%84%E5%B9%B4%E9%87%91%E6%B5%81%E7%94%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%87%91%E8%A8%98%E9%8C%B2%E5%95%8F%E9%A1%8C

東京五輪開会式に思う

今日も暑い日だった.暑すぎるので外に出る気もせず,昼間は夏休みに行う非常勤講師の準備をし,夜になってからは,東京五輪の開会式を見るともなく見た.

 

もともと五輪もスポーツも好きではない人間なので過去の五輪の開会式の記憶もない.だが,入場行進前に行われたエンターテインメントをぼーっと見ていて,『ああ,世の中の人々はやっぱり,私とは全く違うのだな..』そんなふうに感じた.

 

shibuya-kei

開・閉会式の演出のコンセプトは,「Moving Forward」「United by Emotion」「Worlds We share」だとか.電通とか渋谷系とか,時代の波に乗った利己主義者達が,新しい波に乗り続けようと考えだした空虚な言葉だとお思う.具体性はまったくなく,皆で仲良く,なんとなく前に,ポジティブに,進むような感じでいければそれでいい,そんな中途半端なイメージの言葉群である.「United by Emotion」に至っては,たぶん英語ネイティブには理解できないコンセプトだろう.

https://olympics.com/tokyo-2020/ja/ceremonies/

 

sasaki hiroshi

坂本龍一に断られ,野村萬斎に愛想を尽かされ,東京五輪組織委員会がお願いした開会式・閉会式の総合統括ディレクターは,電通出身の佐々木宏だった.それまで彼がどのような仕事をしていたかは知らない.だが株式会社電通の社員っであった以上,キャリアの本道が坂本龍一野村萬斎のような「芸術」であったはずはない.どんなに "クリエイティブ" であろうと,芸術的に見えようと,電通社員の仕事の目的は「お金」であるはずなのだから.

https://twitter.com/DIAMOND__ROUGH/status/1417029008449970181

https://www.asahi.com/articles/ASP7Q5K4DP7QUTI

 

oyamada keigo

少年時代の異常極まる性犯罪的壮絶虐待で辞任した小山田圭吾について,武藤敏郎東京五輪事務総長は「組織委員会が選出した訳ではない」とのたまった.そうかもしれない.そうであれば,統合統括ディレクターの佐々木宏が演出チームの何人かを個人的に選び,選ばれた彼らが仲間を推薦する,というような形でチームが作られたのだろう.つまり,お友達のお友達はお友達という業界のコネによって,五輪の精神とは無関係に演出チームは作られた.それが,例えば,渋谷系小山田圭吾であり,お笑い出身の小林賢太郎であった.

 

ho

女性の容姿を笑いのネタにしようとする統合統括ディレクターのお友達は人権意識に弱い者が多いのだろう.弱者に凄惨な性的虐待を行うことが悪いどころか過去の自慢話にしてしまう者とか,ホロコーストを笑いのネタにすることに何のためらいも感じない者が多く混じるのだろう.今の業界はお笑い芸人たちに席巻されているように思うが,そもそも,現代のお笑いの源流である「おれたちひょうきん族」は,胸糞悪い「虐め」が笑いの基本であった.このような東京五輪の演出チームが作り出した開会式・閉会式が,果たして世界平和を掲げる五輪の精神に沿うものになるとは到底考えられない.

 

variety

今日の開会式は,日本で行われる式典にしては,確かに登場する女性が多かったように思う.黒人とのハーフの選手も複数登場した.だが,それだけだ.それだけで3つの基本コンセプトの中の1つ「多様性と調和」が満たされるわけではない.『人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合う』などというコンセプトを,佐々木や,小山田や,小林を含むチームが本気で認め,演出によって実現したと考えることは,私には到底できない.

https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/taikaijyunbi/taikai/vision/index.html

 

6月半ば頃,米国テレビ局NBCの幹部が「人々は開会式が始まれば問題(新型コロナ)を忘れ17日間を楽しむだろう」と述べた.テレビを見る限りでは,徐々に,NBC幹部が言った方向に進みつつあるように思う.「たとえ開催に反対していたにしても,すでに始まってしまった以上安全安心に楽しみましょう.」,「アスリートには罪はない.始まった以上,アスリートたちを応援しよう.」そんなことを言うTV出演者が徐々に増えてきて,ついにそんな声が支配的になった.

https://news.yahoo.co.jp/articles/e0167c587f7cf948ca23e80242ecc230324c7c92

 

日本社会ではたぶん,そのような考えが常識的で,大人で,妥当で,現実的で,優しい考え方である.反対できる人は非常に少ない.ひねくれ者の私だってこの期に及んで「中止しろ」と大声でいう気にはならない.目の前に誰かがいれば,せいぜいぼそっと「ぼくは反対なんだけどね」と言える程度だ.

 

そして,今,一人で酒を飲みながら考えるのは,

 『オリンピックはいらない.』

 『スポーツにはワールドカップや世界選手権があれば十分.』

である.そしてもう少しお酒が進み,完全に酔っ払えばこう言うはずである.

 『スポーツは嫌いだ.』

 

最後に,若いときからの私の主張を1つ.

 『スポーツはタバコと同じように,体に悪い.』

なぜなら,

  1.  いちど始めるとやめられない

  2.やりすぎると体を壊す.

  3.やめると太る.

 

 

軍艦島についての記事から

Gunkan-jima1

朝刊の片隅に,軍艦島の展示について小さな記事が載っていた.日本の世界遺産の一つ「明治日本の産業革命遺産」に関するユネスコの調査報告書についてだ.報告書は,軍艦島に関する証言の展示が不十分で,見学者がその歴史について適切な判断ができないと指摘し,適切な判断ができるように「多様な証言」を展示すべきという.

https://www.asahi.com/articles/ASP7D7CYXP7DUHBI02J.html

 

Gunkan-jima2

新聞記事には,『朝鮮半島出身の徴用工への差別は「聞いたことがない」とする証言が展示されており』とあるから,おそらく,朝鮮人徴用工への差別に関する証言はこれ以外に展示されてないのだろう.証言だけでなく,この他の差別あるいは差別の有無に関する展示も全くないのだろうと,記事からも,現在の日本の政治状況からも想像できる.

 

Gunkan-jima3

ふう..またか..そんな気分である. 人は誰でも自分をよく見せたいという欲望を持つ.自分の醜い部分を隠し,すばらしい部分だけを世間に見せて生きていきたいという感情は普遍的だ.そして感情だけでなく,実際に自分の醜い過去を隠して生きることも,我々は自分のこととして経験している.こうした感情や想いを,醜さを隠して生きる人生を非難することはできないし,その程度の弱さは許してほしいと思う.嘘さえつかなければ.そして隠すことの許容を夫婦や家族,親戚の不祥事のレベルまで拡張してもよいだろう.私的な組織である限りは.しかし,国や地方自治体や大会社,個人でも政治家や社会的な影響力の大きい有名人など,公的な存在であれば話は別である.特に,世の中に大きな悪影響を与えたことに関しては半永久的に隠してはならないし,国民や他国民,他民族全体を苦しめた場合には,一生あるいは人間の一生に相当する期間ぐらいは謝罪の気持ちを持ち続けるべきだろうと思う

 

coal mine

1960年代,石炭から石油へとエネルギー転換が進む中で,日本の近代化を支えた石炭鉱山は閉山が相次ぎ,炭鉱の多かった北海道や九州からは多くの労働者が都会に流入した.京浜工業地帯を抱える横浜の小中学校にも多くの転校生がいたと思う.しかし,私が軍艦島を知ったのは1974年の軍艦島閉山時.記憶がおぼろだが,その後数年の間に閉山後の軍艦島を紹介するドキュメンタリー番組を見たり,軍艦島を舞台にする映画も見たと思う.その強烈な印象だけは強く覚えていて,いつか軍艦島に行ってみたいと思い行き方を調べたこともあった.しかし,2015年に世界遺産に指定されてからは行く気を失ってしまった.

 

coal mine2

炭鉱労働者の過酷さと貧しさは,軍艦島のドキュメンタリー番組だけでなく,五木寛之を始めとする様々な小説や映画等々で知った.朝鮮半島から強制的に徴用された労働者がいたことも若い頃にNHKかTBSの番組で知ったが,簡単に触れただけで差別への言及はなかったように思う.現在,その徴用工をめぐってひどい差別行為があったかどうかが問題になっているわけだが,私の直感で言えば,当時の社会状況から考えると,間違いなく雇用者や上司等から差別的待遇・差別的言動が,常にとはいわずともごく普通にあったろうと思う.もちろん,同じように生命を賭けて石炭を掘る日本人の同僚達とはある意味での仲間意識が芽生えることもあったろう.友情が芽生えることもあっただろう.炭鉱での過酷な仕事の内容もそれほど大きな差はなかったかもしれない.しかし,あの時代に,日本人と朝鮮人の間に待遇の差や,地位の差や,言葉遣いの差や,ときにはいわれのない暴力などがなかったとは思わない.それを差別と呼ぶことに違和感は全くない.

 

coal mine3

戦前の日本の軍政とその残虐さについてある程度の正しい知識と良心を持っている人間であれば,『徴用工への差別は「聞いたことがない」』という証言に疑問を持って当然だろう.もしその証言だけが展示され,他に差別についての言及がなければ『差別を隠そうとしている』と思われても仕方がない.当事国(日本,韓国)を除く国々のまっとうな研究者達の大半は,占領地で日本軍が激しい弾圧と差別行為をしたことを知っているのだから.

 

UNESCO

ユネスコが求めているのは,差別があったことを認める展示をしろということではない.「多様な証言」を展示しろと言っているのだ.もし展示する自治体の担当者がネトウヨや右翼タカ派を恐れているのであったとしても,それぐらいのことはできるだろう.ユネスコの要求を拒否せずに,誠実に,多様な証言を展示してほしい.それをしなければ,私が夢見た軍艦島が,薄汚れてしまう.

 

 

男と女

Man and Woman

男と女の話は難しい.それは何十年あるいは何百年という長い間,世界中の異なる文化圏で様々な視点から語られてきたからというだけではない.昨今,このテーマは政治臭を帯びているし,LGBTの問題もあって若い人たちの今どきの関心事にもなってしまったからだ.今回のタイトルは「男と女」ではなく「女と男」にしたほうがよいかな..などとセコイことを考えてはみたものの,リベラル・ファッションになってしまったジェンダーレス(genederless),ノンバイナリー(non-binary)あるいは,Gender fluidity まで含めて考えると,順序を入れ替えたぐらいではどうにもならんと思い,そのまま変えないことにした.

https://jobrainbow.jp/magazine/genderless

https://jobrainbow.jp/magazine/whatisnonbinary

https://www.fastgrow.jp/articles/genderfluidity

 

ノンバイナリーと似た言葉は,現役時代に仕事の中で使うことも時々あった.だが,それはコンピュータサイエンスの中でのこと.真か偽かの論理に基づく情報処理ではなく,不確実性や曖昧さを許容する数学理論に基づく情報処理のことである.その「ノンバイナリー」がセクシャリティの文脈で使われていると初めて知ったとき,頭によぎったのはヒッピー文化であった.

 

Hippie

ヒッピー.ここで短く適切に説明できるほどヒッピーに詳しいわけではないが,1950年代後半から70年代前半にかけて世界の若い人たちに広まったムーブメントあるいはカウンターカルチャーといえばよいだろうか.ヒッピー文化には様々な側面があったが,その中の一つに性の解放があった(そのほかにも,自然,共生,自由,愛,平和,非暴力,麻薬,ベトナム反戦などがヒッピーのキーワードだった).多くの若者は Love & Peaceの標語とピースサイン反戦音楽(フォーク・ロック)などに共感し影響を受けたと思うが,筋金入りのヒッピーたちはフリーセックス,バイセクシャル,恋人の共有などによってLove & Peaceを実践していた.愛と性は隠すべきものではなく人間にとって自然なものであるからと,米国でのウッドストック・フェスティバル(1969)では,大観衆の集まる芝生の上で性行為を行うヒッピーたちもいたらしい.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%90%E3%83%AB

 

高校1年のとき,どのようなきっかけだったか覚えていないが,クラスメート10人ほどで生まれ変わるなら男と女のどちらがよいか,という話をしたことがある.1971年だったと思う.日本でもウーマンリブ運動が始まり話題になり始めていたときである.女生徒たちは大半が男に生まれ変わりたいといい,残りは女がよいと答えたと思う.男たちは私を除く全員が男と答え,私だけが女に生まれたかったと言ったのだ.女生徒たちから批判がでた.しかし,私はこれからの新しい時代では女性の方が人生の選択肢がずっと多くなると考えていたのだ.

 

Kotobuki

それは,たまたまの思いつきではない.1971年の当時でも,これからは女性が会社で働いて生きていくことは可能だろうと思えた.働ければ結婚しなくてもすむだろうし(私の伯母がそうだった),会社で働きたくないなら専業主婦という手もある.作家や芸術家,スポーツ選手などへのチャレンジは多くが失敗に終わるだろうが,失敗後の人生を考えると女性の方がリスクがずっと小さかった.組織内で出世したいなどというくだらないことを考えなければ,自由に生きるハードルは女の方が男よりだいぶ低いように思えたのだ.それに,社会不適応でまともな生活ができない場合でも,浮浪者にまで落ちてしまうのは男のほうがずっと多い...横浜は,浮浪者の多い街だったのだ.

 

当時の私は − 今もほとんど変わらないが − 成長して大人になり,組織の中で働いて生きていくことに嫌悪感を持っていた.70年安保闘争で負け,「いちご白書をもう一度」の歌詞のように,おとなしく髪を切って企業に就職していった大学生たちに腹を立てていた.中学生の頃は機動隊と対峙する彼らを憧れの目で見ていたのだ.だから,その時の英雄たちに裏切られた気分だった.そんなこともあって,大きな組織に属さないで生きていくなら女性の方が選択肢が多いと考えていたのだ.

https://www.uta-net.com/song/97688/

 

Homeless

大学4年の時だったか,当時過激なフェミニストと言われていた小池真理子(今の彼女の小説からは想像がつかない)に心酔した女子学生と合コンの場で会ったことがある.小池真理子は当時,男たちにケンカを売るような内容の「知的悪女のすすめ」で有名になっていたのだが,小池に感化された彼女は合コンに来た男たちに議論をふっかけて煙たがられていた.ただ一人応戦したのは私で,結局,片隅で合コンが閉会になるまで延々と議論というか言い争いをしていたのである.議論の中身は全く覚えていないが,おそらくは職場や家庭でよくある男のずるさや不公平さに関する批判と反論だったと思う.なぜかはわからないが,その後彼女に小池真理子の講演会に誘われたのだった.

https://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi56.html

 

Rongo

この社会で男と女は公平に扱われていないのではないか,もっと本質的な問いをすれば,男と女は幸せの質と量において等しくないのではないか.その問いは常に吟味され,見直され,幸せの質と量がほぼ等しくなるように調整されるべきと私も思う.ただ,性別というものは,年齢や職業と同程度かそれ以上に,人間にとって『本質的な属性』であると思うのだ.今の日本ではアナクロ視されてしまうフレーズかもしれないが,「男なんだから命を張っても家族を守れ」,「お前は男なんだから母さんを守ってくれ」という考えは,歴史的に国や宗教を超える普遍的な考えであったし,「ママのアップルパイ」,「お母さんの味噌汁」も同様に普遍的である.年齢に関していえば,「三十にして立つ」,「四十にして惑わず」,「五十にして天命を知る」などの孔子の教えは,日本では今でも多くの者の人生指標になっているのではないだろうか.

 

履歴書に年齢と性別を書いてはいけない国もある.しかしそれは,あまりにもひどい性差別,年齢差別が蔓延していたためではないか.政治的には正しくないかもしれないが,逆説的に言えば,仕事のパフォーマンスについて性あるいは年齢により何らかの違いがあるからこそ差別が存在し,禁止せざるをえなくなったのかもしれない.

 

もちろん,純粋な偏見による差別だった可能性もある.しかし考えてみよう.初対面の人と会ったり,仕事したり,協力するとき,あるいは相手を深く理解する必要があるとき,とっかかりの情報として,性別,年令,職業は最も普遍的に使われる属性である.それは様々な判断や意思決定に『統計的』に役に立つからである.役に立つということは,様々なものがその属性に,統計的であるにせよ,依存しているからである.

 

女より男に乱暴者が多いという知識は,ほとんどの国で当てはまるだろう.女は男より優しい人が多い,男は女より怠け者が多い.細かい手仕事は女性の方が上手.個々の例は誤っているかもしれないが,性別や年令に依存する傾向は必ずある.

 

dear

なぜ人を含む生物が仲間たちの属性の違いを識別するのかといえば,一つには生殖のためであろう.そして,その副目的になるかもしれぬが,属性を識別することによって,統計的に何らかの能力の違いを認識できるからだろう.ある種の雌鹿は,雄鹿の角の立派さを見て相手を選ぶという.動物番組を見れば似たようは話は山ほどある.人間の場合は,年齢が違えば体力が違うし,経験も知識も年齢に依存するだろう.職業が違えば何を知っているか,何を重視するか,どのように考えるかが違うだろう.性別だって同様だ.何かが違うはずなのだ.そのことを否定したら,属性によって物事を効率よく判断することはできなくなるし,多くの人工知能システムも使えなくなる.

 

age

言い古されてきたことだが,また反動だと決めつけられかねないため思ってもなかなか口に出せないことだが,区別と差別は違う.違うことを認識することが学問の始まりでもあるのだ.そして合理的で公平な判断をするための基礎でもあるのだ.20歳と40歳と60歳と80歳では明らかに違う.年齢に独立な違いもあるが,年齢に依存する様々な違いもあるはずだ.電子回路設計者とウーバーの配達員では仕事の経験も知識も大きな違いがあるだろう.仕事の経験から得られた人生観も違うだろう.性別についても同様だ.そうした違いを無視してすべてを同じに扱うことが公平だとはいえない.

 

大切なのは,異なる属性を持つ人々を,合理的に客観的に偏見なく扱うことだ.その上で,恵まれない人々にあらゆる意味で優しい社会を作り上げること.幸せの質と量をなるべく同じにすること.趣味で宇宙旅行を考えるような大富豪からはより大きな税率で税金を取り,恵まれない人々に社会的分配を行うこと.そしてエッセンシャルワーカーに感謝し,お互いを尊重すること.

 

大切なのはそういうことだ.女と男の違いや性差別を云々するまえに,ジェンダーレスとかノンバイナリーとか珍妙な言葉を発明する前に,すべての人々に,それはつまり,優しくされていない弱い人々,あらゆるマイノリティのために優しい社会を作り上げることがまずは大切だ.すべての人々がそれさえ理解していれば,恋愛を除く男と女の社会的な問題は軽減され,多くは解決されるのではないか.それでも恋愛に関しては,男と女の間に深くて暗い谷はあるかもしれないが.

 

 

入国管理局の悪評

このところブログを書くペースが落ちている.なかなか書く気分になれないからだが,それはたぶん,毎日何を見てもコロナ,コロナ,コロナであるからのように思う.通常は新聞やテレビを見て世の中の何かに違和感を感じたときに自分の考えをまとめようと思う.しかし1年以上もの間,新型コロナばかり見せられていると,もうたくさんだという気分になって世の中のことを忘れてしまいたくなってしまうのだ.もちろん,新型コロナが社会的に大切な大問題だということは分かっている...

 

予報によれば,今日は一日中天気が悪いということなので久しぶりに何かを書こうと思っていたのだが,昨日の新聞を片付けているとき『入管』というネタが見つかった.7月7日,朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄の「耕論 入管は変われるか」である.

https://www.asahi.com/articles/DA3S14964616.html?iref=pc_photo_gallery_breadcrumb

 

この欄はいつも特定のトピックについて3人の記者がそれぞれ3人の評者に話を聞いてまとめるのだが,例えば,トップの評者はその分野のオーソドックスな立場から,2人目は別の専門の視点から,3人目は当事者の立場からのように設計され,読者を複数の視点から考えることを促すようになっている.どれも参考になるのだが,多くの場合,私は3人目の評者の話が気にかかる.

 

Nishanta

前置きが長くなったが,3人目の評者は,先日名古屋入管収監中に体調を崩し,治療も受けられないまま亡くなったウィシュマ・サンダマリさんと同じスリランカ出身の「にしゃんた」さんの経験談と入管に対する見解である.なお,ウィシュマ・サンダマリさんの事件概要は,例えば以下に書かれている.ネットで検索すれば,様々な解説と見解が見つかるだろう

https://news.yahoo.co.jp/articles/51202d7203a19130819bb70995b83dc20ea27d9e

 

Immigration Bureau

にしゃんたさんによれば,入管とは「ビザの更新できただけなのに,気持ちまで汚れてしまうような.外で目にする日本人とはまるで違う.非人間的な扱いが凝縮した空間です.」具体例は記事を読んでもらうとして(有料会員でないと読めないが...すみません),私も大学教員時代,アジア諸国の多くの留学生たちから入管について同じような話を聞いた.言葉遣いがぞんざいで乱暴ということは記事にも書いてあるが,一部の学生達によれば攻撃的で罪人扱いされている気がしてくるそうだ.20年ほど前の話になるが,後輩だった韓国人留学生達によれば,「(当時)圧倒的に反日の雰囲気が強い韓国の中で,日本に留学する学生たちは皆,例外的に日本好きな学生たちばかりだ.にも関わらず,ほとんどが最初に会う日本人(=入管)で日本が嫌いになる」ということであった.

 

playmate

このような入管のひどさについての話は,多くの場合アジアなど開発途上国から来た人々の経験談なのだが,会社員時代には,米国から派遣で来ていた米国人エンジニア(白人)からも聞いたことがある.これも30年位前の話だが,当時,米国のプレイボーイ誌はプレイメイトと呼ばれる女性たちのヌード写真を売り物にしていた.当時の日本では禁止されていたフルヌード写真ではあるがハスラー誌などの過激なエロ雑誌とは違って,(主観的であるが,男なら)誰がみても美しいヌード写真である.また,米プレイボーイ誌は政治的,社会的な硬派の記事も常時掲載していて,若い大学卒の独身男性達がごく普通に読んでいた - というより,読んでいれば若くても社会的意識が高いと思われるような - 雑誌であった.だから,先の米国人は機内で読むつもりで,ごく普通の気持ちでプレイボーイ誌を持ってきたのだった.そして入管でそれを咎められたのだった.彼によれば,「日本に持ち込んではいけないとは知らなかった.持ち込んではいけない規則なら取り上げられても仕方がないが,入管の担当者は,その雑誌を高々と掲げて振り回し,周りいた人々が皆わかるように,大声で『!”#$%&=〜+*!』と叫んだ」そうである.『 』部分は日本語であったので彼にはよくわからない.しかし,彼は「罪人のように扱われて居たたまれなかった」と感じたそうである.

 

passport

私自身も若い頃に一度,入管で不快な思いをしたことがある.海外から帰国して,入管でパスポートの自分の写真や名前のあるページを開いて提示したときである.担当者の男性は「パスポートを見せてください」と言った.そのときの私の反応は覚えていないが,おそらくは聞き間違えだと思い,聞き返すか不可解な顔をしたと思う.その後も担当者は「パスポートを見せてください」と1,2度繰り返した.私は..よく覚えてないが..「これ,パスポートですけど..」とても言ったかもしれない.そのようなやり取りのあと,彼は突然にパスポートを取り上げ,それを閉じ,表面を上にしてバンと机の上に置き,「これがパスポートだ/です」と言ったのだ.

 

「パスポートを見せてください」と言われたとき,「パスポートを閉じて表面を上にして出す」ことが正しく,「パスポートを開いて見せるのは誤り」ということをどれだけの人が知っているのだろうか?

 

以上のような私個人の経験は,20年,30年前のものばかりである.当時は自治体窓口の公務員にもひどい対応をするものが少なくなかった.しかし自治体の公務員の対応は昔に比べて格段に良くなった.だから,なんとなく入管も少しはマシになっているのだろうと思っていたのだが,ウィシュマ・サンダマリさんの件や今回の新聞記事を読む限りでは,入管だけが,昭和のあの理不尽な入管のままであるようだ.