霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

日本の新型コロナワクチン開発の遅れについて

5月12日,今日の朝日新聞の「耕論」は「新型コロナワクチンは始まったけれど」だった.いつものように3人の論者がそれぞれの視点から述べているが,今日は日本ワクチン学会理事・中山哲夫の「開発に背を向けたツケ」を読んで思ったことを書こうと思う.

 

朝日新聞・耕論「新型コロナワクチンは始まったけれど」

https://www.asahi.com/articles/DA3S14900195.html

 

ところで,朝日新聞のWeb版は無料会員になれば月に5本の有料記事が読めることになっていて,耕論はその枠内で読めたはずなのだが,どうもシステムが変わってしまったようだ.無料会員だと上記の記事を読めない.私は紙の新聞でこの記事を読んだ.

 

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さて,中山哲夫は,コロナワクチンの開発で日本が遅れをとったのは,政府が長年ワクチンを軽視してきたことの結果だという.そしてその理由として,日本では「集団予防接種後の死亡や障害が社会問題化して,裁判で損害賠償を命じられた政府がワクチンに背を向けたから」と述べる.これと同じ主張は最近テレビやネットでも時々聞くのでめずらしくはない.中山は「マスコミの報道ぶりも問題でしたが」とはいうものの,そのことについて詳しく書くことはせず,それによってワクチンを軽視するようになった政府・厚生労働省の無責任を問うている.政府の責任ということについて私も異論はない.

 

しかし「集団予防接種後の死亡や障害が社会問題化」したこと,「裁判で損害賠償を命じられた」こと,そして「マスコミの報道ぶり」を暗に批判しているのではないかと思えることが気になる.直接的にそうした批判は書いてないが,私は筆者がそう考えているのではないかとどうしても思ってしまう.それは,ネット上には(ネットだけではないかもしれないが),予防接種後の死亡や障害の社会問題化,つまり高額な損害賠償やマスコミの報道ぶりが,日本のワクチン開発衰退の原因であるかのように書いている記事があまりに多いからである.

 

例えば,

 https://www.city.fukuoka.med.or.jp/jouhousitsu/report224.pdf

 https://jp.glico.com/boshi/futaba/no80/con02_01.html

 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-12-22/QLD98CDWX2PU01

 https://www.asahi.com/articles/ASL6J7X9QL6JUBQU013.html

 

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考えてみよう.たとえ予防接種後の不幸がほとんど稀であるにしても,社会全体としてワクチン接種で恩恵を受ける人々のほうがはるかに多いとしても,たまたま自分や自分の家族にワクチン接種の副作用で生涯に渡る障害が残った場合のことを.あるいは死亡したときのことを.そのとき,我々はどのように考えるか.

 

一般論として,ワクチンであればそうした不幸は起こり得る.可能性はゼロとはいえない.しかしすべての人にとって不幸より恩恵を受ける「確率」の方がはるかに高いから,社会全体にとっては間違いなく恩恵のほうが大きいから,政府はワクチンの接種を推奨する.そのとき,運の悪い(としか言いようのない)ごく一部の人,例えば100万人に一人,に生涯に渡る障害が残ったとき,その人に運が悪かったねと言って済ましてよいのだろうか.国にもワクチン製造会社にも過失はない.だって100万人に一人ぐらい起こりうることは始めからわかっているのだから.つまり彼らの過失ではない.過失でないから責任もない.責任がないから何もしない.可愛そうだけど我慢してね.それが人生だ.そんなふうに終わらせてよいのだろうか.そういう問題である.

 

私は,損害賠償訴訟が起きたり社会問題化したのはマスコミの責任でも被害者の責任でもない,政府があるいは社会が被害者に対して不誠実だったからだと考える.社会では,公共の福祉のために一部の個人に不利益を受け入れてもらうしかないことがある.ワクチンによる重大な副作用はそれにあたる.その場合,国は,社会は,不利益を得た個人に対して十分すぎるほどの礼儀を尽くし,十分な補償を払わねばならない.「ワクチンと死亡に因果関係はない」とか「国には一切の責任はない」とか主張すべきではない.

 

この世には「不確実な因果関係」というものがあって,それも「非常に稀に起きる因果関係」というものがあり,それが起こり得ることは分かっていた.その可能性を分かった上で,多数の国民の不幸を防ぐために,国民全体の最大幸福を目指すためにワクチン接種を実施せざるを得なかった.一部の国民を犠牲にしたい訳ではなかった.だがごく稀に起きる不幸が運悪くあなたにたまたま起きてしまった.そのように正直に語り,説明し,裁判など起こさなくても良いぐらいに十分な誠意と補償を示せばよいのだ.日本の政治・行政にはそれがない.

 

そのことが - 日本の政治・行政に誠意と正直さのないことが − ワクチン開発に後ろ向きな現状を生み,新型コロナワクチン開発を遅らせた最大の原因であろう.

 

紙飛行機 - 井上陽水

井上陽水といったら,50代半ば以降で知らない人はいないのではないかと思うぐらいに有名な歌手だ.ここではあまりにもメジャーな歌手や歌について書くことは避けようと思っているのだが,おそらく「紙飛行機」はそれほど知られている訳ではないと思うので,まあいいだろう.井上陽水の名がある程度知られるようになったのは,たぶん「人生が二度あれば」(1972)から.誰もが知るようになったのは「夢の中へ」(1973)の後だろう.

 

私が初めて井上陽水を聞いたのは1971年,高校1年生のときだった.いつも聞いていたFM東京から流れてきたのはアルバム「断絶」(1971)の中の「紙飛行機」(「センチメンタル」の中にもある).ちょうど初恋をして,失恋をして死んでしまいたくなっていたときだ.とはいっても単なるクラスメートへの片思いで,その娘がクラスの他の男子と付き合い始めたというそれだけのこと.今になってみれば稚すぎるほどの淡い恋なのだが,そんなときにFM東京から流れてきた「紙飛行機」がこころに深く染みたのだ.

 

学校にはもう行きたくない気持ちでいっぱいだった.だからちょうど慢性盲腸炎がちくちく痛みだしたのを幸いに,痛い痛いと大騒ぎして無理やり盲腸の手術に持ち込んだのだ.そして1週間ほど学校を休んだ.後ろめたさも多少は感じたが,学校から離れたいという気持ちで一杯だったから,医者から手術しましょうかと言われたときには本当に嬉しかった.平日の夕方,病院の窓から街を見下ろしていると,煩わしくて悲しい世の中から自分は切り離されているんだという不思議な幸せな感情に包まれた.

 

でも退院したちょうどその日,その娘を含む4,5人の女の子が病院に行ってみたけれどもう退院してた,と自宅まで見舞いに来たのだった.焦った.本当に焦った.公立とはいえ進学校だったので同級生には裕福な家庭の子どもたちが多く,その娘の父も大手企業の人事部長と聞いていたのだ.こちらの父は大手企業とはいえ,小学校卒の京浜工業地帯の工場の工員.座ってみれば誰もが傾いているとわかる六畳と四畳半の二間のボロ家に彼女たちを迎え入れ,もう夕食時だからと両親は近所のラーメン屋から味噌ラーメンの出前をとったのだった.恥ずかしかった.両親が悪いのでも,自分が悪いのでもないことはわかっている.でも,そのとき,死んでしまいたいほど恥ずかしかったのだ.

 

「紙飛行機」 

 

今となってはほとんど聞くことのない曲になった.でも時々聞くと,なんとも言えないあのときの甘酸っぱい高校時代の感情が蘇ってくる.

 

井上陽水 紙飛行機

 

 

 

 

 

プカプカ - 西岡恭蔵と大塚まさじ

今日は,プカプカ.今までここで取り上げた歌の中ではこれが一番知られているかもしれない.西岡恭蔵の作詞作曲で,60年代末の3人バンド「ザ・ディラン」で最初に歌われたのではないかと思う.

 

私が初めてこの歌を聞いた記憶は曖昧だ.テレビドラマの中で,林隆三がピアノの弾き語りで歌っていた記憶があるのだが,それが最初かもしれない.あるいは,西岡恭蔵が抜けたディランII(大塚まさじと永井洋)のラスト・アルバム「時は過ぎて」を買ったときだった気もする.いずれにしても,プカプカをよく聞くようになったのはディランIIもすでに解散してしまった後.大学生になってアルバイトをし,レコードを自分のお金で買えるようになってからだ.解散したディランIIとソロになってからの大塚まさじのアルバムを何枚も入手して聞いていた.

 

プカプカは,実に多くの歌手や俳優がコピーした.先の林隆三の他にも,Youtubeを見ると,原田芳雄松田優作木村充揮,宇崎竜童,泉谷しげる福山雅治,吉川晃司などの動画が見つかる.でも,やっぱり良いのは西岡恭蔵大塚まさじ.特に,大塚まさじは4番目の歌詞の次の部分を少し変えて歌う.

 

  あたいの占いがピタリと当たるまで

  あんたとあたいの死ぬ時わかるまで

 

この部分を次のように歌うのだ.

 

  あたいの占いがピタリと当たるまで

  あんたとあたいの死ねる時わかるまで

 

「死ぬ」を「死ねる」と変えているだけだが,当時拗ねるように生きていた私にとってはとても大きな違いだった.

そういえば本当かどうかよくわからないが,この歌のモデルとなった女性はジャス歌手の安田南だったという話がある.安田南もかなりミステリアスな女性だったが,西岡恭蔵も安田南も,もうこの世にはいない..

 

西岡恭蔵大塚まさじ

 

西岡恭蔵

 

大塚まさじ

 

 

バイデンは世界を変える?

4月28日(日本は29日),バイデン米国大統領が議会で施政方針演説を行った.NHKは新型コロナワクチン接種が進んで米国が再び前進することを,朝日は米国(民主主義)と中国(全体主義)との競争を見出しに掲げた.

 

NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210429/k10013004481000.html

朝日 https://www.asahi.com/articles/ASP4Y2HPBP4YUHBI009.html

CNN https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210429/k10013004471000.html

 

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これらのニュースをざっと読んで最も私の印象に残ったのは経済対策である.これまでに打ち出していた総額2兆ドルのインフラ投資計画に加えて,育児と教育支援のために総額1.8兆ドルの追加経済対策をするという.「この国をつくったのはウォール街ではなく中間層だ」とのメッセージと,ニューディール政策を進めたフランクリン・ルーズベルト大統領の名前を出してである.明らかに,米国中間層(庶民層)の経済的苦境を救うために富の再分配を実施しようと大きな政府を目指している.

 

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1980年代のレーガン(米国大統領)・サッチャー(英国首相)以来,世界はしだいにケインズ主義から新自由主義の時代になり,1989年のソビエト連邦解体で新自由主義は加速した.自由経済自由貿易グローバリズムを無条件の善とする市場原理主義が当然の社会になり,貧富の格差は広がり,一握りの大金持ち(勝者)が社会の富の大半を得て,貧者(敗者)であるのは自己責任とされた.日本では,自分が貧しいのは自己責任であると貧者自身が思うまでに洗脳されてしまった.そして,誰も彼もがお金を中心に,お金のためにものごとを考えるようになり,そのために多少の倫理を踏み外しても,他人を不幸に追い落としても仕方がないと考えるようになった.ホリエモンとか,村上世彰とか,社会的不正を働いても自分の利益を増やすことを優先する人々 − 昔だったら眉をひそめられるような人々 −  が世の中で受け入れられたりする.

 

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バイデン大統領はその流れを止めようとしている.偏りすぎた富を再配分し,「労働に報いる」形で中間層を復活させようとしている.共和党は抵抗するだろうが,もしバイデン大統領のこの政策が成功したら米国は大きく変わる.米国が変われば世界も変わるだろう.それは時代が変わるということだ.一握りの大金持ちとエリートのために大多数の庶民がつらい下働きをする社会ではなく,大多数の庶民がささやかな幸せと豊かさを感じられる社会になるだろう.

 

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それが実現すれば,最大の貢献者はバイデン大統領ということになるだろうが,影の功労者もいる.トランプ前大統領だ.トランプ大統領こそが時代に取り残された米国の労働者たち − 忘れられた人々 − を結束させ,ウォール街シリコンバレーのエリートばかりを見ている政治家たちにNOを突きつけたのだ.トランプは,人として,政治家としてほとんどメチャクチャではあったが,非米国民には非情であったが,たった一つ,米国社会でこれほどにも多くの忘れられた人々が生きている,ということを顕在化した点で重要な役割を果たしたと思う.

 

 

人口減少と経済発展と資本主義

4月25日,今週の日曜日だったが,朝日新聞に『「人口信仰」からの脱却』という記事が載った.全2回の記事ということで,次回は5月9日のようだ.私は数十年前の若い頃から,ごく素朴に「資本主義経済下で経済成長は必要条件なのか」,「そうであるなら,なぜ経済は成長しなければならないのか」という疑問を持っている.経済を専門とする旧友,とても誠実な大学教授にわかりやすい説明を求めてみたこともあるが,聞いても納得できなかった(説明内容は忘れてしまった).そんなこともあって上記の記事を興味深く読んだのだが,内容は過疎の町村で頑張って生きている人々の紹介・報告に終始するもので,私の期待とは違った.第2回の記事に少しはヒントになる内容があればいいと楽しみにしている.

https://www.asahi.com/articles/ASP4S6VYKP4LTLZU001.html

 

あらためて,なぜ経済は成長しなければならないのだろうか.人々がある程度満足できるまでに達したら,あとはゼロ成長でもよいのではないか.

 

その前に,日本の衰退と人口減少について考えてみよう.

多くの論者が,現代日本の衰退(継続する経済不振と解決できない社会的諸問題)の本質は高齢化を含む人口減少だと言う.簡単に要約すれば,人口が減少するから個人消費が減少し,個人消費が全体の6,7割を占めるGDPも当然のように伸びない(GDPは,個人消費額+企業投資額+政府支出額+輸出額である).GDPが伸びないということは景気が冴えないわけで税収も伸びない.我々の給料も上がらない.だから個人消費が伸びるはずもなく,悪循環となる(企業の内部留保が増え続けていることについては,ここでは触れない).

日本が全体としてあるいは平均として豊かになれないだけでなく,社会内部では貧富の差も広がっている.格差は基本的に分配の問題であるが,全体が低下傾向の中で格差が広がれば貧困も増える.同時に,高齢化の影響による医療や福祉予算の自然増もある.増大する貧困と高齢化のダブルパンチで福祉予算の拡充が必要だが,冴えない景気の中,税収不足で十分な予算を取ることができない.国や地方自治体の赤字も増える.

赤字削減には増税が手っ取り早い.だが,富裕層や企業は減税しないと外国に逃げてしまう,との論理で彼らの税金を上げることはできない.だから庶民も支払う消費税を上げるしかない.そして消費増税をし,景気はさらに冴えなくなり,もう一つの悪循環が起きる.つまり,これらの悪循環のすべての始まりが人口減少だというのだ.

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人口減少がすべての原因であるなら(それだけではないと思うが,人口減少が主要な原因であることには同意する)人口を増やせばよい.シンプルすぎる解決案だ.だが人口を増やそうにも2つの大きな障害がある.一つは,家族や親戚がお互いに助け合って生きる(自助・共助を社会の基本とする)美しい日本の伝統を復活すれば解決すると考える与党・政府の超保守政治家たち.家庭が子育てや養老の一義的責任を持ち,お国の発展のために一致団結すべきだ,そのためには何より教育が重要と考え,道徳科目で「我が国の伝統と文化」を教え,国旗・国歌を義務化し,美しい日本を守ろうとしたご先祖様(靖国神社)にお参りを欠かさない.こうした恐竜のような人たちが支配する今の日本で,まして家庭を持つにはお金がかかるのにいつまでも給料の上がらない日本で,若い人たちが結婚して子供を作り,家庭を持って生きていこうという気になれないのはやむを得ないだろう.

もう一つの障害は,個人がどう生きるかは個人の自由だ,働いて一人で楽しく毎日生きてるのに,結婚だとか,子供だとか,家庭とか,地域とか,社会とか,大きなお世話だ,そんなことを押し付けるのはパワハラだ,セクハラだ,結婚した専業主婦の家庭と違って我々は一人ひとりが働いて所得税を払って義務は果たしているんだ,などと勘違いして主張する若者たち,そしてそれに同調するステレオタイプ・リベラルたち.

我々人間は −− 孤島で生きるロビンソン・クルーソーを除けば −− 社会を作り,社会の中で関係性と相互依存性を持って生きている.税金を払えばあとは個人の勝手だろうというわけにはいかない.そして社会というシステムは,そもそもの成り立ちからして,存在継続を自身の最重要目的としている.社会システムの構成員である以上,社会の存続性を脅かす構成員に注意やアドバイスを与えるのは当然だし,当然の注意を無視したり反抗する人間は批判されて当たり前だろう.だが,今の軟弱な軽〜い日本社会では,手垢だらけになった凶暴な言葉 − パワハラとかセクハラとか個人の自由 − が社会的な力を持ってしまい,多くがそれに同調するようになってしまった.つまり,「結婚して子供を産もう,それが幸せだ」という有史以来ほとんど世界中で認められてきたこと −− それが生きることの前提でなくなった社会は滅びるしかなかろう −− を,強要ではなく,ただ言うことですらできない社会になってしまった.

 

人口増加の障害についての話が長くなってしまったが,人口減少による経済停滞について考えてみよう.言いたいのは,人口減少が経済発展(GDP増加)を妨げているのが事実だとしても,一人当たりの「実質GDP」あるいは一人あたりの豊かさがほぼ一定であればそれでよいとは言えないのだろうか,ということである.昨日の生活が経済的に幸せだったなら,そして今日も昨日と同じ暮らしができるなら,それでいいではないか.昨日より今日が金持ちになっていなくてもいいではないか.なぜ,経済を専門とする人々はそのように言えないのだろうか.

人々が皆,現状に満足しているのなら,そして人口に変化がなければ,経済が成長する必要はないし,人口が減ってマイナス成長の経済になったとしても,経済のマイナス成長幅が人口減少幅と同じであれば問題ないということだ.

問題があるとすれば,一つには,人々が常に上を見ているからだろうか.今日,人口分布上で下から50%のところの豊かさだったら明日は51%の豊かさのところに上昇したい,そう思うことは理解できる.しかし,昨日50%で幸せだったら,今日51%になれなくても,昨日と同様に幸せだと感じることもできるだろう.それは,何に対して人生の幸せを感じるかということであり,人間性に関わることである.知性を重視し,教育を重視する社会であれば克服できないことではない.実際,ほとんどの高齢者はそのように生きているし,大半の現役の庶民もそうであろう.

ゼロ成長を受け入れられない,克服できないのは,資本主義が富の増大を,より正確に言えば資本家たちの富の増大を目指すシステムであるからだろう.本来の資本主義の概念に「資本家たちの富の増大」が前提として組み込まれているのかどうかは知らないが,少なくとも現代の現実の資本家たち,企業家たちを見ている限り,どれだけ金持ちになってもお金が足りないと感じているように見える.儲けて,稼いで,金を貯めまくる,それが自己目的化しているように見える.彼らが,他の人々の収入,つまり庶民の収入を奪ったり削ったりせずに新たな富を生み出し,純粋に社会の富を増やしてその増分未満を儲けとして受け取っているなら問題ない.その場合は経済全体(GDP)を伸ばし,社会にも貢献していることになる.しかし,GDPが伸びない中で個人的利益を増大しているなら,あるいはGDPの増分以上に彼らが稼いでいるなら,彼らは庶民から富を奪っていることになる.

そして,おそらく,というよりほぼ確実に,それが現代の資本主義社会で起きていることだ.米国でも,日本でも,欧州でも,アジアでも,つまり世界中で起きている.

 

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婚姻制度について

先週,新潟県から横浜に引っ越してきてやっと片付けが一段落したところだ.横浜の方が不動産価格が遥かに高いから部屋数が1つ減ることになったのだが,引っ越し前後の断捨離と片付けは本当に大変だった.記憶にない乳児の頃の引っ越しを除くと,二十歳以降,計八回の引っ越しを経験しているが今回が一番大変だった.印象的だったのは,昔と違ってモノを捨てるのに大変な手間と時間とお金がかかること.そして体力も.ついには腰も痛めてしまった...

今日は,朝日新聞の「耕論」,「婚姻制度 何のために」から.

https://www.asahi.com/articles/DA3S14878279.html

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私は社会的な問題について考える時,意識的にも無意識的にも弱い者の立場に立つことが習い性となっている.その意味で自分自身,分類上「リベラル」に属する人間だと思っているのだが,「婚姻」については,通常のリベラルから見ればたぶん保守的なのだ.つまり,「婚姻」とは,社会的にも,言葉の定義の上でも,男女もしくは女と男の関係であると思ってきた.昨今の同性愛者やLGBTの権利を擁護する社会的文脈の中でも,権利擁護と婚姻は違う話であって,「婚姻制度」と同等の権利を認める別名の制度を法的に作り,差別を禁止すれば済む話だと考えてきた.同等の権利を認める別制度を作るぐらいなら「婚姻制度」に含めてしまえばよいではないかという考えはある意味で合理的だけども,もしその単純すぎる合理性を社会が採用するのであれば,その法的制度の名前を「婚姻」ではない別名,例えば「社会的縁組」とか「パートナー制度」とかに変えてほしいと思うのだ(戸籍制度に影響を与えかねない話だし,そうだとすると民法全体を見直さなければならないだろうから大変なことは承知している).そして,法律から「婚姻」という概念を消し去り,社会的慣習の中だけに「女と男の婚姻」という概念を残して欲しい.

なぜか.それはたぶん,私の中の(ややロマンチックな)感情の問題なのだが,もっともらしい理屈を言えば次のようになるだろう.

人間は様々な属性を持つが,その中でも性別は最も本質的な属性である.年齢,肌・目・髪の色,体の形・大きさ・重さ,生誕地,宗教,言葉,習慣,体力,能力,職業等,そのような様々な人間の属性よりも,はるかに普遍的に,本質的に,大多数の社会でのグループ化や分類に使われてきた属性が性別なのだ.古今東西,有史以前の狩猟採集生活時代から現代に至るまで,ほとんどすべての国・地域で「女」と「男」は社会的に分けられてきた.昨今の底の浅いステレオタイプ・リベラルの間では「属性による分類」は悪であるかのように語られがちだが,分類こそが知識と知恵の基礎であり,人間の知性に欠くべからざるべき能力なのだ.社会における女と男の分類,それ自身を否定することがあるとすれば,それは人間の歴史と知性の否定でしかなかろう.

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女と男の分類が重要なのは人間だけではない.有性生殖をするほとんどすべての動物で「メス」と「オス」の区別は最も重要で,本質的に違う生態を持っている(ここでは性転換する生物がいる,などは重要でない.転換するにしてもメスとオスの区別があることが重要).例えばの話,生殖は動物にとって種の保存に必須の何より大切な行為であるが,オスが求愛し,メスがオスを受け入れるかどうかを選ぶというペアリングのパターンは,種ごとに具体的行動は違うにしても,相当な普遍性がある.

だから「婚姻」とは,人間という種における女と男の間の本質的な営みであると私は思うのだ.

朝日新聞の耕論に戻ろう.

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ロバート・キャンベルの「社会束ねる紐帯 同性婚も」には心を動かされた.彼が同性愛のパートナーと結婚を望む心情はよくわかる.だが,彼と彼のパートナーの不安は制度的・社会的に結婚と同等の権利が認められれば解消されるだろう.二人の祝福についても,皆が二人の縁組を祝い認めればよいのであって,「婚姻」あるいは「結婚」という呼称を持つ制度に固執する必要はなかろう.もちろん,家族や友人たちの間で二人は結婚している,と宣言することは自由だ.

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王谷晶は今の(日本の)結婚制度を否定している.結局は国民を管理するためだけにあるのだろうと見きっている.一方で,その枠組みに入らなければ認められない権利 − 遺産相続や医療行為を受ける際の同意等 − があることがおかしいだろうといっている.同性婚を求めるというよりは,法律婚をしようがしまいが,同性であろうが異性であろうが,実質に基づいて人権を認めてほしいということかな.それはよくわかる.

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もうひとりの論者,志田陽子は憲法学者.記事の内容は,憲法24条の「婚姻は,両性の合意のみに基づいて成立する」の「両性」をどう解釈するかの話だ.憲法論議は,75年前の時代状況の中で書かれた文章を現時点でどのように解釈すべきか,という話なので,どう解釈するにしても主観的・恣意的判断が入り込むしかないだろう.他人が書いた文章をどう解釈すべきか,なんて話には個人的に全く興味がわかないのでスルーする.

 

最後に.今回,この記事を書きながら改めて思ったことを書こう.暴論とされるのは間違いないだろうが,私が一番良いと思うのは,法律から「婚姻」という概念を一掃してしまうことだ.そして,家族や世帯は男女関係なく同意に基づく申告によって作れるようにすればよい.世帯解消もだ.世帯の権利と義務が明確であればそれで問題はなかろう.そうすれば,「婚姻」は社会慣習の中だけに存在する概念となり制度的な差別云々はなくなる.戸籍制度については..正直に行ってわからない.誰か適当に考えてくれ.なくなってもよいのではないか.

 

 

後手後手が続く社会

内田樹の研究室」を長い間フォローしているのだが,最近の記事に「後手に回る政治」というものがあった.

http://blog.tatsuru.com/2021/04/03_0740.html

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この記事の中で,内田は『私たちは子どもの頃から「後手に回る」訓練をずっとされ続けている』という.『「教師の出した問いに正解する」という学校教育の基本スキームそのものが実は「後手に回る」ことを制度的に子どもたちに強いている』からである.

なるほどと思った.私達は学校で課題を与えられてそれを解く.解くべき課題を考えるのではなく,起きうる課題を予測するのでもない.課題がすでにそこにあり,学生や生徒はそれを解くことを求められる.それが「後手」である.文科省がかつて導入した「ゆとり教育」も,これから導入しようとしている「探求学習」も,指導要領が存在し高成績を取る条件が事前に決められているのであれば,私達は与えられた課題を正しいと決められた方法で,正しく回答することが求められる.その求めに応じて正しく回答する者たちが,後手に回って正しく処理する者たちが『優秀』と判定されるのである.

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64738

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学校で常に『優秀』だった人間が社会に出た後のことを考えてみよう.例えば,東大などの一流大学を出た者たちである. 彼らは課題が与えられると優れた知能を発揮してそれを解く.あらゆる課題には導くべき答えという「目標」があり,導く際の「制約条件」がある.明示的あるいは非明示的な制約条件の下で,与えられた目標を達成する方法を素早く,正確に見つけて解く.滞りなくそれらを実行できるから彼らは優秀だという称賛をうける.

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問題は,社会において起こりうる課題を自ら予測し,その課題発生を回避する方法を考えて提案する教育,つまり先手を取る教育をうけていないことだ.それは,政治家や,行政を担当する官僚や,企業経営者達にとって最も重要な能力のはずだが,彼らはその能力を磨く教育・訓練を受けていない.それどころか官庁や大企業などの古い社会では,若い頃から権力者や上司の意向を汲み,忖度し,上司の意向どおりに仕事をする能力を磨く.上司が命じる方針や方法の問題点を見出し,起こりうるトラブルを予測し,それを回避する方法を考案・実行すること,先手を取る訓練を社会でもしていない.それをすると,分不相応なでしゃばりとしか認識されないのだ.だから,事前に予測し避けることが可能なはずのトラブルを避けずに,トラブルが表面化してからその(解決法ではなく)対処法を考える.多くの場合は,誰も否定できない言い訳を考えて組織の責任を回避することが対処法だ.そうして後手に回ってうまく処理する者が『優秀』とみなされて出世するのだ.

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現代は,だれにも明確で,わかりやすい表面的な事柄だけを評価し,順番をつけ,苛烈なほどに優勝劣敗を強いる新自由主義社会/市場主義社会である.このような社会ではトラブルの事前回避は評価されない.出世にも金銭的利益にも結びつかない.事前回避策が功を奏して何もトラブルがおきなければ,その回避策の重要性は誰にも認識されず,明確な評価に結びつかないからだ.トラブル発生を予測できなかった権力者や上司たちには,何もする必要がないのに無駄な事をしたと思われてしまう.結果としてこのような社会では,自己保身のために政治家や官僚たちは先手を取って,リスクを取ってトラブルを回避するという行動をとらない.ロックダウンなどもってのほかだ.

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今の新型コロナ禍で上記のような状況が見られる.日本の政治と行政は過去の事例から学習することを全くせず,同じことを何度も繰り返している.後手,後手で.このままだと,ワクチンが普及するまでは第4波,第5波と同じ失敗を繰り返すだろう.運悪く変異ウィルスにワクチンが効かないとなれば,いったいどうなるのか想像もつかない.