霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

自分をほめてあげたい,への違和感

Arimori Yuko

「自分で自分を自分をほめてあげたい」 25年ほど前,アトランタ・オリンピックでメダルを取った女子マラソン選手が口にした言葉として有名だ.それ以来ときどき,良い成績をあげたスポーツ選手が同様の言葉を口にするのを見るようになった.

https://sports.smt.docomo.ne.jp/ol2020/column/20180427_0.html

 

「自分をほめてあげたい」と類似の言葉もよく聞くようになった,例えば「自分へのご褒美」 当初は若い女性がよく使うという印象だったが,最近では男女関係なく若い人たちがよく使うようになったようだ.

https://toyokeizai.net/articles/-/164289

https://tsubame-chem8.hatenablog.jp/entry/2020/12/06/%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%81%94%E8%A4%92%E7%BE%8E%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AE%9A%E7%9D%80

 

Ikee Rikako

ごく最近になって,白血病を克服した女子水泳選手が復帰後にすばらしい成績をあげて「自分をほめてあげたい」と語ったという.ある意味ナルシスティックなこのフレーズ,そしてその言葉を生む心情は,最近のスポーツ選手の間ではかなり一般化しているようだ.どのような分野であっても,一流になるためには人知れずたいへんな努力が必要なのは事実であろう.だから自己肯定をしたいという気持ちはよくわかる.だが私のような古い人間には,どうしても結果として勝った人間の,あるいは運が良かった人間の配慮のない発言であるようにしか思えないのだ.自己肯定をしたいという気持ちを持つことと,実際にそれを公言することは同じではない.

https://news.yahoo.co.jp/articles/87629d4c79db5d86fa7c11b7e334b894260c7389

 

まして「努力は必ず報われる」とまで言ってしまうとこれは明らかに失言といってよいだろう.二十歳そこそこの若いスポーツ選手で,しかも選手生命どころか命まで失う危険のある病気を克服してきた彼女を正面から批判する気にはならない.だが,この言葉は数多くの無名の人々,才能に恵まれなかったり運の悪かった人々を非常に強く攻撃する言葉であることは指摘しておきたい.

https://www.nikkansports.com/sports/column/tamesue/news/202104080000314.html

https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20210405-00231105/

 

どのような分野であっても成功するために努力が必要なことについては,多くの人が同意するだろう.しかし,圧倒的に多くの普通の人々にとって努力が必ず報われる訳ではないことは常識だ.努力は成功の必要条件であっても十分条件ではないからだ.成功は努力の他に,才能や,お金や,教育や,生まれ育つ場所や,人との出会い,そして努力することができる環境も含めて,幅広い様々な条件を必要とする.それらをすべてひっくるめて【運】と呼ぶのであれば,成功は一言で言って【運】しだいということになる.

 

スポーツだけの話ではない.研究やビジネス世界も同様だ.

マイケル・サンデルが,最近,「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本を出版した.

https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E5%8A%9B%E3%82%82%E9%81%8B%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%A1-%E8%83%BD%E5%8A%9B%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AF%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%8B-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB/dp/4152100168/ref=tmm_hrd_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=

 

まだ読んでないからコメントする資格はないが,概要は以下の記事でわかる.

https://www.hayakawabooks.com/n/n2c36e7aad3a2

 

Michael Sandel

要は,実力のある人々や成功した人々はその理由として努力を強調するが,努力する環境や才能も含めれば,それは「運が良かった」ということに過ぎないということである.そんなことはないと即座にいえる人は,たとえ社会的に成功してようと,私から見れば理解力のない,人の上に立つ資格のない人である.

 

例えば,大学を退職したある男が,「私の父母の学歴は小学校卒で,父は工場労働者,母は女中だった.そのような家庭の中で私は努力して国立大学の教授になった」といったとしよう.これは一面では事実かもしれない.だがおそらく嘘でもある.運の良かった部分をすべて省いているからである.母が教育熱心だったこと.食費を節約しても本をたくさん買ってくれたこと.高度成長の真っ只中にいて庶民の生活も豊かになる時代に育ったこと.公立高校や国立大学の授業料が今より格段に安かったこと.自宅から通えるところに大学があったこと.その後の人との出会いも含めて,運の良かったことはたくさんあったはずだ.それらの一つが欠けても大学教授になることはできなかったろう.運がよかったからこそ,その男はこの駄文を書くことができているのだ.一方,その男の父は運がよくなかった.だから一工員として一生を終えたのだ.(工員という職業を蔑んでいるわけではない.さきほどの「運」としては書かなかったが,男の父は常に真面目で,一生懸命で,家族と会社のために尽くした.だからこそ男は大学に入ることができたのだ).

 

Ikee Rikako2

言いたいことは唯一つ.「私は努力した.だから報われた」,「私は私の努力をほめてあげたい」成功した人間がそうしたことを,独り言でなく,人前で,テレビ等の前で語ることは無神経にすぎると思う.だから,二度とそのようなことを言わないでほしい.テレビを見ながら応援しているから.