霞喰人の白日夢

霞を食べて生きていけたら..

ポリコレとリベラルと表現の自由

今日,このようなタイトルで書いてみようかと思ったのは,写真家,ヘルムート・ニュートンを描く映画の評を読んだからだ.

https://www.sankei.com/entertainments/news/201206/ent2012060002-n1.html

実は,私も彼を詳しく知っているわけではない.しかし,ヘルムート・ニュートンという名を見たとき,一昔前のアメリカの高級ファッション誌で見るようなクールで少しエロティックな写真を撮る人だったかな,というおぼろげなイメージが浮かんだのだ.おそらく,少年の頃に何度か見て,強烈な印象を得ていたに違いない.Googleで画像検索をしてみると,はたして,思ったとおりであった.

https://www.google.com/search?q=%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3&tbm=isch&ved=2ahUKEwjWl92fg6DuAhVMWpQKHbAFBo0Q2-cCegQIABAA&oq=%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3&gs_lcp=CgNpbWcQAzIECCMQJzICCAAyAggAMgIIADICCAAyAggAMgIIADICCAAyAggAMgIIADoECAAQGFCnBljCD2C0E2gAcAB4AIABfogBuwOSAQMxLjOYAQCgAQGqAQtnd3Mtd2l6LWltZ8ABAQ&sclient=img&ei=fqICYNbgIMy00QSwi5joCA&bih=664&biw=1259&rlz=1C5CHFA_enJP735JP735&safe=active

これらの写真に,私と同年代の男たちは今でもカッコイイと思い,少し懐かしさを感じるのではないだろうか.プレイボーイとか平凡パンチとか,昔の青少年向け雑誌に掲載されていたヌード写真や,オヤジ用週刊誌のエロ写真とは全く違う,そうした用途には全く向かないヌード写真.一味違う知性を感じさせる,でも少年にとっては,やはり見つめているところを見られたら恥ずかしいという思いを起こさせる写真であったろう.

ヘルムート・ニュートンは,冒頭の映画評にもあるとおり,米国のモード誌「ヴォーグ」でお馴染みだった写真家である.ぼくのやはりおぼろげなイメージでは,ヴォーグはニューヨーカーと並んでハイセンスな歴史のある雑誌で,アーウィン・ショーの短編小説「夏服の女たち」(常盤新平訳)に出てくるようなオシャレで知的な女性が登場する.そんなオシャレな雑誌に掲載されていたカッコイイ写真が,ポリティカル・コレクトネスを心配する時代になったのだ.

ポリティカル・コレクトネス.この言葉を口にして何かを批判する者,あるいはこの概念を大切にする者の多くは,いわゆるリベラルを自認する人々だと思う.でも彼らがヘルムート・ニュートンの写真を批判するとして,彼らはこれらの写真のどこに「正しくない」と感じるのであろうか.男達の大半はこれらの写真から性欲を感じない.少なくともダイレクトには感じない.だから,性欲をいたずらに助長するわけではない.常人であれば隠しておきたいであろう女性の体の部分をあらわにするからか.それを商業誌に載せることは性を商品化しているからか.あるいは,女性だけをそのような被写体とすることは男女差別だからか.隠すべき部分をあらわにし,女性のみを対象とし,それを商業誌に掲載していることは事実だ.だがそれが差別であると断定するのには飛躍があるのではないか.例えば,差別とは明らかに違う異性への憧れ,あるいは畏敬の念だとしたら,それでも社会的に批判されるべきものなのだろうか.

リベラル.一般的には自由主義的,進歩的と訳されるが,言葉としてはLiberty(自由,解放)の形容詞あるいはそれを信じる人を意味する.自由とはいってもフリーダム(freedom)とは異なる.リベラルの概念は西洋における革命,例えばフランス革命と結びついている.それは,王政,専制,独裁,宗教,貧困,無知からの人々(民衆)の解放=自由を意味している.封建時代から近代(モダン)への転換を押し進める力がLiberty であったわけだ.もちろん,思想・良心・表現・学問の自由は,このLibertyの一部である.だとするなら,ヘルムート・ニュートンの写真は,このLibertyの例外とするほど,政治的・社会的に許されざるものなのだろうか.リベラルを自認する人々が,ポリティカル・コレクトネスを掲げてヘルムート・ニュートンを非難するのは,この質問にYESと考えているからなのだろうか.

私は自分自身をリベラルと位置づけている.しかしいわゆるリベラルの大勢といつも同じ考えを持つわけではない.LGBTを差別するつもりはないが,現時点では,無条件にLGBTを第三の性として社会的制度・システムに組み込むことには消極的である.LGBTという存在あるいは現象が,生物学的なものか,生理的なものか,心理的なものか,明確でないからである(それを科学的に明らかにし解決しようとする努力が,この社会にはないように見える).人為的地球温暖化説にも疑問を持っている.個人的に人為説と懐疑論の両方を数年間調べてみた結果(科学論文もかなり読んだ),人間が排出する二酸化炭素等の温室効果ガス説よりも太陽活動に起因する宇宙線説のほうが,はるかに説得力があり科学的に事実を説明できると考えるからだ.

http://kjs.nagaokaut.ac.jp/yamada/info/globalwarming.pdf

保守かリベラルか.あるいは,右か左か中道か.SNSの時代になってから,世界が政治的に分断されただけでなく,社会的・文化的・科学的・生活的であったはずのものまでが政治化され,同じように分断されるようになった.そのことが非常に悲しい.せめてリベラルを自認する人たちや,良識を持つ保守の人たちには,異なる意見の人の言葉に耳を傾け,知らないことは勉強し,是々非々でものごとを判断してほしいと願っている.