過去の背負い方
今日のタイトルは8月21日の朝日新聞・耕論のテーマの完全なパクリで「過去の背負い方」.記事は過去の行為の責任を問われて東京五輪演出チームを辞任または解任された関係者の例をあげ,過去の責任の負い方について3人の論者から聞いた話をまとめている.だが今日これから書こうと思う内容は,論者たちへのコメントでも記事に対する感想でもなく,自分の過去についてどう向き合うかについて,私自身が若い頃からずっと考えてきたことである.
https://www.asahi.com/articles/DA3S15016677.html
2020東京五輪はコロナ禍に翻弄された不運な五輪だった.しかしそれだけでなく,その運営や人選については「恥辱の五輪」とさえ言いたくなるほどに混迷を極めた五輪だった.私が把握しているだけでも,通常では起こらないような以下の数々の事件・不祥事があった.このリストを眺めていると,まるで先進国から転落していく日本を見ているような気さえする.
2013 首相の嘘八百演説(福島第一原発,東京の夏の気候など)で東京五輪を誘致
2015 建設費高騰でザハ・ハディドの新国立競技場デザイン案撤回
2015 エンブレムデザイン盗作で佐野研二郎案撤回
2020 電通社内のパワハラ問題で開閉会式演出チームメンバー 菅野薫辞任
2020 開・閉会式総合統括 野村萬斎退任・チーム解散(理由不明)
2020 組織内人事トラブルで開会式執行責任者 MIKIKO辞任
2021 女性容姿侮辱で開・閉会式総合統括 佐々木宏辞任
2021 過去の性犯罪的壮絶虐待とその自慢話で開会式音楽担当 小山田圭吾辞任
2021 過去のユダヤ人大量虐殺ネタお笑いで開閉会式ショーディレクター 小林賢太郎解任
上述の新聞記事が念頭においている事件は最後の2つ,小山田圭吾と小林賢太郎のことだろう.
「人は自分の過去(の発言や行為)に責任を持ち,誠実に生きなければならない.」
私がこのようなことを意識し始めたのは高校生の頃だ.そう考え始めたきっかけは2つある.
1つは,当時の年配者から「あの頃は若かったんだ」「歳を取れば分かる」「今にわかる時が来る」などという発言を頻繁に聞いていたからだ.若い者は未熟で,現実社会を知らず,世間に通用しない空論を振り回すが,歳を取れば現実を知り,世の中を知り,正論ばかり言ってられなくなる.君もきっとそうなるよ.そんなふうに若い者を押さえつけようとする年配者に対して激しい憤りを感じていたのだ.私はあなた達とは違う,歳をとったからと安直には転向しない,簡単に考えを変えるのは真剣に人生を生きていないからだ,と心のなかで叫んでいた.
もう1つは,70年安保闘争で権力と戦っていたはずの憧れの大学生たちが皆,大学卒業前になると拳を下げて,髪を切り,大人しくなって企業社会に入っていくのを見たからだ.大多数の学生たちは何ごともなかったかのように企業人になり,闘争で破れた後に追い詰められ過激化する昔の同士たちに冷たい視線を向けた.私には,大多数の裏切り者が世渡りの下手な少数を見捨て,蔑んでいるように見えた.論壇等においてかつて革新だった知識人が年老いて保守に転向することの多いのに気づいたこともある.
https://www.huffingtonpost.jp/2014/02/12/uk-lottery-study_n_4771788.html
「歳をとってから若い頃の自分が誤っていたと安直に反省したり,知らなかったと言い訳したり,他人事のように懐かしんだりする人間には決してならない」
それがティーンエージャーだった私が繰り返し考えていたことである.そして,30代半ばまでは折に触れてそのことを思い出した.思い出し方は,しだいに「自分の過去には責任を持つ」というややあいまいな表現に変わっていったがその想いは忘れなかった.しばらく前に「安易に反省するような人間になってはいけない」という趣旨のツイートをし,「反省という言葉の使い方が間違っている」と批判されたことがあった.私にとって「反省」とは,反省しなければならない誤りを過去にしたから必要になることなのであり,その誤りは,過去の自分が自分に対して誠実でなかった/真剣でなかったことを示していると思うのだ.
小山田圭吾と小林賢太郎がしたこと,つまり「性犯罪的壮絶虐待とその自慢話」,そして「ユダヤ人大量虐殺ネタお笑い」が私自身のしたことであったら,たとえそれが少年のときのことであっても,20年以上前のことであっても,とても耐えられないだろう.「責任を果たす」と考えても何をすれば果たしたことになるか途方にくれるだろう.どんなことをしても「責任を取った」とは思えないだろう.まして,時間の経過で「責任が軽減される」わけはないし,「社会に許される」とも思えない.世の中から消えてしまいたいと思うに違いない.
しかし,「ユダヤ人大量虐殺ネタお笑い」については,本人の真摯で不断の「反省」と「謝罪」が行われていれば,それが社会の中で広く認知されれば,日本国内に限っては社会的に許される時がくるかもしれない.一方で「性犯罪的壮絶虐待とその自慢話」については果てしなく深刻だ.同じように壮絶虐待を経験し,心に傷を負い,何年も,何十年もその陰惨な記憶に苦しめられて生きている人は世の中には数多くいて,彼らはけっしてそれを忘れないからだ.本当に真摯に反省するのであれば,一生「責任を負って」生きるしかなく,大昔だったら出家する以外に生きる道は考えられないだろう.とても華やかな職場で生きていけるようなことではない.時代錯誤といわれるかもしれないが,映画「夜叉」の高倉健のように生きていくしかないように思える.耐えられないほどの恥辱を味わった被害者のことを考えれば..
反省...思い起こせば,私にも顔から火が出るほど恥ずかしいことをした記憶はいくつかある.若かった頃,何をしても自分の想いが伝わらなかったあの頃,躊躇しながらもしつこい行動をとったことがある.好きな人にどうしても思いが通じず,寂しさを紛らわすように心ならず他の女性と付き合ったこともある.匿名ブログだからこそ書けることで,今となっては当時の相手に心から謝罪することしかできない.今でも後になって反省すべきようなことを決してすべきではないと思うが,もししてしまったら,謝罪と反省をするしかないだろう.そして追うべき責任,果たすべき責任があればそれを負い,果たすべきだろう.「責任を果たす」など,そんなに簡単なことではないと知りながら.
小山田圭吾と小林賢太郎がしたこと.それは確かに彼らが責任を負うべきものだ.重い,重いその責任は,彼らが,彼らの人生を賭けて果たしていくべきものだろう.